「私」というラベル
幼い頃から「変わっているね。」とよく言われた。
思えばそれは、私が「女子」というラベルを貼り難い存在であったからだろう。
服屋で店員に甲高い声で
「あ、それ人気なんですよ〜。私も持ってます〜。」
等と言われると即座に買うのを辞める程、人と同じである事を極度に嫌う私は、「変わっている」と言われる事に悪い気はしなかった。
だが、極めて合理的に生きていると自負している私が「変わっている」と言われる道理がどこにあるのか、全く理解できなかった。
中学生になると、友人達との会話の中心は専ら若手俳優やジャニーズ等の所謂「イケメン芸能人」になった。皆一様に恋慕のような情を抱いている様子だった。
クラスの男子についての話題も多くなった。
私はどちらにも全くついていけなかった。
「変わっている」とまた言われた。
私が学生時代に唯一心から慕っていた高校の音楽講師は、クラシックからサブカルチャーに至るまで幅広く造詣が深く、ある時数回の授業に渡って映画版の「RENT」を見る事となった。
プッチーニのオペラのオマージュで、ジョナサンラーソン一人が脚本作詞作曲全てを手掛け、数々の部門でトニー賞を受賞した言わずと知れた名作ミュージカルだ。
前述のラーソンが初演当日の朝に急逝するというドラマティックすぎる逸話もさることながら、ヘテロセクシャル、ホモセクシャル、バイセクシャル、HIV保有者、AIDS発症者の悲喜交々は当時の時代背景と相まって、多くの人々が魅了された。
そして、高校生の私もそうだった。
名曲の数々とともに、先生が丁寧に紹介してくれたセクシャルマイノリティという概念と、「LGBTQ+」というラベルを知った。
家に帰って調べた。
もしかして私もセクシャルマイノリティではないのか?
性的嗜好について、「アロマンティック」や「アセクシャル」というラベルを知った。
だが、人生で一度だけ恋に落ちた事があり、人並みに性欲もある私に当てはまるラベルではなかった。
おそらく、よく聞くエピソードは
「以前より違和感があり、自分が当てはまるラベルを見つけたときに一人じゃないとホッとした」
というような類いだろう。
私は逆だった。ラベリングされない自分にホッとした。
無知故に、私のこの状態をしっくり表す言葉を私が知らないだけかも知れない。
でも、私はこれ以上調べる事をやめた。
ラベリングされない事を望んだ。
セクシャリティというグラデーションの中の、名もなき点でありたかった。
私は生物学的に女性で、私の表現している性は完全に女性だ。
メイクが大好きで、ワンピースを好んで着る。
だが、恐らく生物学的に男性であったとしてもメイクは好んだと思う。ワンピースに至っては、服の上下の組み合わせを選ぶ煩わしさがない事から好んでおり、女性として生まれていなければこの便利さを知ることはなく、ワンピースを着るという選択肢はなかったであろう。
乏しい恋愛経験と、表現型が女性であることより、恐らくマジョリティからすると
「え〜恋愛経験が少ないからだよ〜。理想も高いんじゃな〜い?マッチングアプリとか婚活パーティーとか行って、出会い増やしなよ〜。良い人いるって〜。」
となるのだろう。
だが、そういう事ではないのである。
セクシャルマイノリティという概念が浸透しつつある世の中ではあるが、マジョリティの認識はせいぜいゲイ、レズビアン、バイセクシャルだろう。
マイノリティの中のマジョリティである。
マイノリティの中の謎の点である私の信条なぞ、マジョリティに明かしたとて、めんどくさい事になるのが火を見るより明らかだ。
だからという訳ではないが、私はカミングアウトはしないと決めている。
カミングアウトをする事は素晴らしい事だと思う。カミングアウトをする勇気を出し、したいと思えるような人間関係を築けている、それだけで素晴らしい。
だが、カミングアウトしない事もそれと同じくらい讃えられるべき選択だ。
今日は国際カミングアウトデーである。
国際カミングアウトデーに、カミングアウトしない事をカミングアウトしているのである。
自分に合うラベルを見つけて、楽になる人もいるだろう。
だが、私は自分にラベリングしない事を決めてから、自分にすっと芯が通った気がして生きやすくなった。
こういう考え方もあると知って欲しい。
私には、「私」というラベルがあるのだから。