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Tomo美濃フルーツ探訪2020 vol.4 福砂屋のカステラ と あまおう苺

今日のひと皿

福砂屋の「カステラ」と「オランダケーキ」と「あまおう苺」

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長崎市の福砂屋さん。「長崎カステラ」で有名ですが、今回初めて「オランダケーキ」をいただきました!こんなお品があったのですね。ココア生地に、胡桃とレーズンを散りばめた、ビターな味わい。カステラ同様のしっとりした口当たりながら、カステラより甘さ控えめで、ペロリと完食😋たいへん美味しゅうこざいました。「オランダケーキ」よ、幸せなひと時をありがとう。

チョコレート選びに悩まれている方、今年は「オランダケーキ」はいかがでしょうか?甘すぎるの苦手な方には、とってもオススメです。

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「あまおう苺」は正三角形に近いフォームをしているため、ハート♡に見えやすい品種。そして果肉も赤みが強いものが多く、どの角度で並べても、白いお皿に映えますね。

それにしても卓上にカステラ1本まるごとって光景は、幸福感いっぱいですよね。食べる前から、ピースなオーラが溢れておりました。

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ちなみに福砂屋の公式HPを覗くと「カステラとはなんだろう?」のコーナーが。
意外と知らないカステラの秘密が、Q&Aで学べます。

「カステラ」の名前の由来は、スペインのカスティーリャ王国(Castilla)からと言われています。日本人が「これってなに?」と尋ねたときに、ポルトガル人が「Bolo de Castella(ボロ・デ・カステラ)カスティーリャ王国のお菓子だよ」と答えて、聞き取れた「カステラ」の部分が語源になったという話。

当時の砂糖は、薬と同様の貴重品でしたが、16世紀末になってポルトガル領マデイラ島で豊富に生産されるようになり、それに卵も加えて、カステラのルーツといわれる「ビスコチョ(bizcocho)」などの砂糖菓子が生まれました。

当初の「ビスコチョ」は、作るのに大きな竈(オーブン)が必要だったため、女子修道院に材料を持ち込んで、尼僧に焼いてもらっていたとか。16世紀後半になって村々の共同竈や町のお菓子屋さんで作られ始めます。その昔は”乾パン“であり、硬い食感だった「ビスコチョ」ですが、18世紀頃になると、卵の白身と黄身を分けて、白身をメレンゲ状に撹拌する技法が発明され、この技法によって、やわらかくふくらむ“ケーキ”としての「ビスチョコ」や「パン・デ・ロー」ができるようになったという経緯。

そんな「カステラ」がどうやって日本へ渡ってきたかといいますと、時は大航海時代、スペインは南アフリカ経由で太平洋からマニラへ到達し、西廻りで日本へ。ポルトガルはアフリカ喜望峰を経由してインド洋から東廻りで、日本へやってきました。これらの船の貿易商人やキリスト教宣教師たちが「カステラ」を日本にもたらした、と言われています。

ポルトガル人が種子島に漂着したのが1543(天文5)年。フランスシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが1549(天文18)年。この頃のキリスト教布教にまつわる苦労話も、日本人としては面白いところですが、それは別の機会にするとして、文献には 1557(弘治3)年、ポルトガル船で来航したバテレンや宣教師が「かすていらなど」を人々に与えた、と残っています。布教活動のための”釣り餌“でもあったのですね。人間はいつの時代でも甘味に弱いものです。そのほか宣教師ルイス・フロイスがガラス瓶に入れて織田信長に献上したという「金平糖」や「ボーロ」「タマゴソーメン」「有平糖」「カルメラ」などと総称して「南蛮菓子」と呼ばれるようになります。

当時の日本国内は、675(天武4)年の勅令以来の仏教思想で、牛・馬・犬・猿・鶏(卵を含む)は食用禁止でした。卵と砂糖でできたお菓子も当然、タブー。しかし長崎でキリスト教が浸透するうちに、ポルトガル人たちが食べるのに触発されたのか?日本人キリシタンから食習慣が変わっていったのか?なんだかんだで鶏卵を使った「カステラ」が食べられるようになっていきました。

西洋から伝えられた、美味しくて珍妙な食べ物「カステラ」。現代日本の、ありとあらゆる洋菓子が、ここから始まったと考えると、実に感慨深いですね。遠路はるばる来てくれてありがとう!カステラさん。おかげで現代日本は、お菓子大国になりましたとさ。しかしそんな「カステラ」も今では和菓子の分類。日本の食文化に、キレイに吸収されました。当時の鉄砲同様、伝わった良いものはなんでも、すぐに自分たちで再現・普及しようとする、貪欲な職人魂を感じますね。

ちなみに、16世紀頃のアジアにおける砂糖は、中国の福建省福州で本格的に生産されていて、長崎にも福州船で大量に運ばれていました。寛永元年(1624年)創業の『福砂屋』の屋号も、 貿易商として「福」州の「砂」糖を商っていたのが由来ではないかと考えられているそうです。

1633(寛永10年)の第一次鎖国令に端を発する江戸時代の鎖国体制の中で、1636年に完成した出島、つまり長崎だけは、国際貿易都市として海外文化を積極的に受け入れ、かつ原材料も豊富にあったことは、今日まで続く「長崎カステラ」の隆盛に大きく貢献しているのでしょう。

そういえば「長崎カステラ」の特徴の一つは、カステラ底部のシャリッとした食感。絶妙に角の取れた、ザラメ糖の感触ですよね。あれは「材料を撹拌するときに、ザラメ糖の角をすり減らしながら生地になじませる」技術に由来していて、ザラメ糖を溶かし込みながら、一部は沈殿させて残す、という“手作り”だからこその仕上げなんだとか。生地に溶けたザラメ糖はコクにつながり、底に残ったザラメは心地良い口当たりとなる。そんな独特の職人技が「ふっくら、しっとり、最後にシャリッ」という、福砂屋ならではの「カステラ」を生み出している訳です。

「撹拌する際、シャリッというザラメの音がかすかにします。この音を聞きながら、長年のカンで、混ぜ加減を調整します。ザラメが全然溶けないのもいけないし、溶けすぎてもいけない。ザラメ糖がすり減りながらも、カステラの底に残るように努めております。生地作りが全てといっっても過言ではありません。おいしさにこだわる事が私たちの誇りです」

福砂屋にまつわる話で興味深いのが、「卵供養」。12代清太郎の頃から、毎年5月に、材料として日々に使う卵に感謝し、供養するとともに、物を大切に扱うことの教えや、従業員の健康と社業の発展を祈るものとして、福砂屋の菩提寺・正覚寺(1604年創建)で営まれます。身につまされる話ですね。私も毎日1個、美味しくいただいておりますよ。卵に合掌。命に合掌。

そんなカステラ一筋に、別立法〔卵を手割りで黄身と白身に分け、職人の手によって、白身だけを細心の注意を払い充分に撹拌し、そのあとに、黄身と双目糖を加えてさらに泡を生かしながら撹拌する〕を今日まで守り続けている福砂屋さん、慶事・幸運のしるしとして、蝙蝠〔こうもり〕をロゴにしています。日本の鶴亀と同じく、中国では桃と並んで大変おめでたいものの象徴なんだとか。

皆様にも幸運がおとずれますように。

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