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ロシアで出会った人たちの気持ちは、全然わからないままだった

感染症も戦争も始まる前のロシアに降り立ったことがある。滞在時間はたったの1時間。空港の中だけの出来事で、正確にはロシアの大地を踏んですらいない。だけど、一生忘れられないくらいに散々なめにあった。

2019年の9月、1年間のイギリス留学を終え、夫と娘と3人で日本に帰国することになった。そこで購入したのがモスクワのシェレメーチエヴォ国際空港乗り継ぎの、アエロフロート・ロシア航空の航空券だった。言い訳がましいけれど、この航空券を予約した時期はとても忙しかったのだ。だから購入した航空券をまともに見たのは、具体的な帰国の段取りを考えはじめてからだった。もうその飛行機に乗るしかないという頃になってはじめて気がついた。ロンドン11:50発、モスクワ17:40着。モスクワ19:00発、東京10:30着。……乗り継ぎの時間が1時間20分しかない。

急激に不安になって、アエロフロートの公式Webサイトを確認すると、乗り換えターミナルの最短接続時間は50分と書かれていた。シェレメーチエヴォ国際空港はアエロフロートの拠点である。そのアエロフロートが販売している航空券なのだから、乗り継ぎ可能だと考えるのが自然だ。

だが、嫌な予感が拭いきれない。さらに検索を続けると、出てくる出てくる。アエロフロートの乗り継ぎを失敗した人の口コミがわんさか出てくるのだ。日本の空港のように、列に並んで流れに身を任せていれば、親切な空港スタッフが乗り継ぎ先まで的確に導いてくれるなどと思ってはいけない。口コミから見えてきたのは、乗客の海をかき分け、非協力的な係員に必死のアピールをし、搭乗口まで猛ダッシュできたら、ひょっとすると間に合うかもしれない、という世界だった。さらに、飛行機が遅れて乗り継ぎを失敗したら、当然配慮してもらえるだろうという日本的な常識も通用しない。たとえ飛行機の到着が遅れたとしても、次の便の出発まで1時間以上間があったら、乗り継ぎを失敗しても自己責任だと見なされるというのだ。

子連れで帰国の荷物を抱えながら空港泊になったうえ、正規料金で航空券を買い直すのは何としても避けたい。ロンドンからモスクワに向かう飛行機の中で、着陸後の行動を何度も何度もシミュレーションした。ただでさえ乗り継ぎ時間が短いというのに、飛行機は定刻より遅れてロンドンを出発した。遅れるんだったら、いっそ長時間遅れてくれたほうがマシだ。そんな思いとは裏腹に、飛行機はきっかり次の便の1時間前にモスクワに到着した。「自己責任」という言葉が頭をよぎる。

着陸しても飛行機の扉はなかなか開かなかった。どうやらバスに乗って空港の建物に向かうために順番待ちをさせられているらしい。ようやく2台目のバスに乗れた頃には、すでに着陸から20分以上が経っていた。パニックになりそうな気持ちを抑え、空港の建物に着くと同時に、グランドスタッフに乗り継ぎの方法を尋ねた。スタッフは明快な口調で告げる。

——10分あります。走ってください。

ここから入国審査、荷物検査、次の搭乗口への移動が待っているというのに、あと10分。別のスタッフに「抜かしていってください」と指さされた先にあったのは長蛇の列——ではなく、入国審査官を取り囲む群衆だった。一段高い位置に座っている審査官に向かって、乗客たちがパスポートを頭上に掲げて手を上下させている。日常離れした光景を前に「フェスみたいだな」と場違いな感想が浮かんだ。現実逃避している場合ではない。意を決して人波に加わり、審査官に声が届く位置まで人をかき分ける。そして、「乗り継ぎまであと7分しかないんです!」と精一杯声を張り上げて、3人分のパスポートを掲げた。だが、審査官はこちらを見さえもしなかった。

空港泊——。もうダメだとしか思えなかった。だが、次の瞬間、審査官は眉一つ動かさないまま、何の前触れもなく私たちのパスポートをつまみ上げ、まったくの無関心といった表情で、スタンプを3回押しつけた。やさしさなのか、気まぐれなのか、偶然なのか、まったくわからない。だけど、とにかく入国審査を終えたパスポートが手元に返ってきた。

考えている暇はない。手荷物検査へと走り、帰国のために機内に持ち込めるギリギリまで増やした荷物を、ベルトコンベアに放り投げた。これまたつまらなそうにスクリーンを見つめる係員の、じつに形式的な検査のおかげで、ベルトコンベアと同じ速度で検査が終わった。これであとは直線の廊下を搭乗口まで走るだけだ。10kgのリュックを背負って。

もはや時計を見る余裕すらない。運動不足の体に鞭を打って、必死に走ったが、あっという間に息が上がり、半分ほどの距離で「もう走れない」と声に出てしまった。肩に食い込むリュックがずっしりと重い。娘を抱える夫の背中が少しずつ遠ざかっていく。ああ、なんでこんな思いをしながら空港を全力疾走しているんだろう。もっとちゃんと確認してから買えばよかった。いや、でも、こんな無茶な乗り継ぎのチケットが売っているなんて思わないじゃないか。

ぼやけかけた視界の片隅に、夫が搭乗口に入るのが見えた。スタッフは今にも持ち場を離れようとしている。10メートルは離されていた私も、なんとか搭乗口へ滑り込み、家族3人で飛行機の扉をくぐり抜けた。席にたどり着く前に、機体はもう動き始めていた。飛行機に乗れた。それだけで感無量で、どちらからともなく夫とハイタッチをした。

日本に着いてもトラブルは終わらなかった。預けた荷物は乗り継ぎに失敗してしまったのだ。だが、そんなことはもう些細なことだった。整然と伸びるロストバゲージの列に並び、日本人スタッフの丁寧な対応を受けているうちに「帰ってきたのだな」と実感した。一方、荷物受取所の一画には、持ち主が現れない荷物が山のようにあった。やはり、乗り継ぎに失敗してしまった人がいたようだ。それも、一人や二人ではなく。

まったくひどいめにあった。帰国直後はそう文句ばかり言っていたのだが、今になって思い返してみると、私はその感想に自信がなくなっていた。だってあのとき、ロシアにいた人たちの気持ちが、全然わからなかったのだ。ひょっとしたら、あそこにいた人たちは、私にとびきり親切にしてくれていたのかもしれない。まったくわけはわからなかったけれど、物事はちゃんと前に進んでいたのだから。ほんのいっときだったけど、あそこにいた人たちと交流をしたはずなのに、目の前の人の気持ちすらわからないまま流されて、もみくちゃにされ、立ち止まる暇もないまま飛行機は飛び立ってしまった。残ったのは結果だけ、どんな気持ちで押されたのかわからないパスポートのスタンプだけだ。

現在では日本や欧州からのロシアへの直行便はすべて運休になっている。あそこにいた人たちは、もうあそこにいない。今度はあそこにいた人たちが大きな流れに巻き込まれて、もみくちゃにされて、そうしている間にどんどん物事が進んでいっているのかもしれない。その渦の中にいる人たちの気持ちは、「わからない」というのが誠実なのだろう。だけどそれでも、あそこにいた人たちの気持ちはわからなくても、あそこからいなくなってしまった人たちの気持ちならば、わかるような気がするのだ。どうしようもない流れに戸惑うときの気持ちには、少し身に覚えがある。

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