聞くことが教えてくれたこと

突然だが、私は勉強が好きだ。小さい頃から勉強が楽しくて仕方がなかった。学ぶことは新しい世界への扉を開いてくれる。勉強すれば人は幸せになり、それが広がれば世界は平和になるとけっこう本気で思っている。だから私が大学で専攻していたのは教育だったし、新卒のときに選んだのは教育系のベンチャー企業だった。

5年ほどの間、ざっくりと言えば個別指導の塾の先生として、小学生から高校生くらいの生徒たちに勉強を教えていた。勉強嫌いの子は多いけれど、子どもの頃から勉強を好きになることができれば、どんなに人生が豊かになるだろう。子どもに勉強を教え、その子の人生を豊かにする手伝いをする。それは素晴らしく意義のある仕事に思えた。

ところが、いざ先生になってみると、授業がまったくうまくいかない。そもそも私は自分が勉強するのが好きなのであって、教えることがうまいわけではなかった。それどころか、私は人見知りで、人に向かって話すのは何より苦手だったのだ。特に初めて会う人と話すのは苦痛以外の何物でもない。

これは先生として致命的だ。先生になるということは、時間を区切って次々に違う人に向かって話すということだ。個別指導では、こちらの責任で、一人ひとりの理解や状況に合わせ、わかりやすくて面白い説明を、ほぼアドリブで繰り返すということが求められる。人見知りにとってこんな最悪な環境があるだろうか。授業のたびに、生徒を前にして緊張で手が震えているありさまだった。

大学の専攻でも塾の研修でも、指導法や学習理論、発達心理などを学び、そうして得た専門知識を実際の指導で生かそうと奮闘した。しかし、なんだか自分が空回っているような気がしてならなかった。生徒と私の間には乳白色の薄い膜のような隔たりがあって、目の前の人に向かって説明しているはずなのに、なぜだか遠くにいる人に呼びかけているような感覚になる。ぎりぎり声が届く距離にいる人に向かって、「ここからでも気づいてもらえるかな」と、身を細めながら声を張り上げるような、少し気まずい緊張感。そんな心もとなさをいつも感じていた。

目の前に座っているこの子に、私の声は本当に届いているのだろうか。勉強は楽しいだろうか。勉強することでこの子の世界は広がっているだろうか。そもそもこの子に勉強は必要なんだろうか。本人の希望でここに通っているんだろうか。好きなものは。学校は。将来の夢は——。

いくら良い指導法が採用したところで、教師が生徒から信頼されていなければ、何の意味もない。私は、緊張を隠すために理論で武装してみたものの、自分がうまく授業をすることばかりに気を取られていた。それではダメだと気づく頃には、私が担当する生徒の数は最初より少なくなっていた。私は勉強をすることで子どもたちに豊かな人生を歩んでほしいと願っていたけれど、勉強は幸せになるための一手段にすぎない。私の理想の勉強を押しつけるのではなく、一人ひとりにとっての勉強の意味を理解したい。

生徒と信頼関係を築くにはどうしたら良いのか。私が考えた方法は、とにかく生徒の話を聞くことだった。子どもは話を聞かれ慣れていない。大人はいつだって忙しいものだし、同世代の友人が気を使って聞き役に徹してくれるなんてことはまずありえない。ちょっとした言葉で揚げ足を取られ、ばかにされ、否定されることすらある。考えてみれば、私も「自分の話を聞いてもらえた」と心から感じられたのは、大人になってからだった。小学生の頃、大人にどうしてほしかっただろうか。やはり、最後まで話を聞いてほしかった。途中で話をまとめて切り上げたりせずに、言いたいことを言わせてほしかった。「そんなものが好きなの?」とばかにせずに、「そういうときはこうするもんなんだよ」とインスタントな解決策を出さずに、「それがいけなかったんだよ」と後出しのお説教をせずに、ただ受け止めてもらいたかった。

子どもたちの話を聞くにあたって、私はすべてを受け止め肯定すると心に決めた。これは、子どもの言うことに無条件で賛同するということではない。たとえ自分が賛成できないような話が出てきても、遮らず、否定せず、まずは肯定的に受け入れる覚悟をしたということだ。求められなければ助言もしない。大事なのはこちらが解決策を提示することではなく、子ども自身に「自分の話を聞いてもらえた」「何を言っても大丈夫なのだ」と感じてもらうことだった。とにかく「うん、うん」と、予定が許す限り話を聞き続ける。最初はぽつりぽつりとしか声を出さなかった子が、次第に雄弁になり、最後にはどっと言葉が溢れ出す。1時間や2時間では終わらなくて、1回の話が4〜5時間に及んだこともある。それくらいに、話したいことが胸に溜まっている子どもたちがいたのだ。

そうしているうちに、授業を通してだけではわからなかった子どもたちの個性が見えてきた。練習がきついという部活のことや友達との衝突、おいしかったお菓子やハマっている深夜アニメなど、様々な話を聞いた。意外に多かったのが、入塾のときにはそれらしい目標を適当に語っていたのだけれど、じつは本当はもっと別の、具体的な夢があったという話だった。人は、他人の夢に対しては、あまりにも簡単に「そんなことがしたいの?」「無理じゃない?」「こっちの方がいいんじゃない?」と言うものだ。それを知っている子どもたちは、本当に大事な夢ほど、人に話せないのかもしれない。

子どもたちの話をよく聞くようになって、少なくとも、生徒本人のことを考えた授業ができるようになったと思う。こちらが一方的に教えるのではなく、目標を共有しあった仲間として、いっしょに勉強の作戦を練るようになった。私と同じように勉強を好きになったという子はいないけれど、それぞれの子が自分なりの勉強との付き合い方を身につけ始めているという実感があった。

聞くことを通して、子どもたちにはずいぶんと鍛えられた。初めて会った人に笑顔で接すること、自分と異なる考えを受け止めること、学ぶのはやっぱり楽しいということ。あの日々の中で一番成長させてもらったのは、間違いなく私だった。人見知りはすっかり治った……と言うことはできないけれど、内心緊張してはいても、新しい出会いをしっかり楽しむことができるようになった。今では仕事でインタビューを担当することもあり、聞くことは私の仕事の一部になっている。昔の私が聞いたら卒倒するかもしれない。

私を今の場所に連れてきてくれたのは、あのとき出会った子どもたちだ。新しい世界に連れて行ってくれるから、勉強が好きだった。だけど、世界を広げてくれるのは、勉強だけではない。話を聞く、ということも、世界について知ることなのだ。

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