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アオイホノオ

4月のある日、自分が大学の芸術学科に入学して3週間が経とうとしていた。




この頃の自分の心境は、
ラストシーンの内容だけネタバレされた状態でセブンを初めて観た気分に近かったと思う。



そういう風に感じた理由は、

大学の講義を介して仲良くなった女子生徒
印象が近いところで仮名にするなら、

灰原 アケミ

'(そんな感じ、めっちゃ冷静な人だなと思った。

ファーストコンタクトは向こうからで文章に起こす事も快諾してくれた)


彼女の生活費や借金等の返済の為、介護職と水商売を掛け持ちしていている話(詳しくは割愛)を通して

もはや全く遠くない所(身近)に泣きたくても泣くことすら出来ない同世代の人達の存在、


それに対する多くの比較的恵まれた同世代の認識不足、又は無関心の暗黙の了解に対してどうしようもなさを感じた。



(無関心ほど楽なものはないたしかに)

でもこれは迂遠的な理由で、

端的に言い換えると、自分の無力感、
同時に、改めて沢山の人に社会的弱者の存在伝えて意識させる事の尊さや表現者の重要性を感じる。

やはり音楽や写真、映画、アニメ、等を通してではないと伝えられない事が沢山ある様に思えてくる。


是枝監督然り
問題の解決策を提示する事ではなく人々に悶々と考えさせる事が表現の役割。

例えば

是枝監督「万引き家族」
ケンローチ監督「わたしは、ダニエル・ブレイク」
とか


この前この2人の対談番組を見てケンローチの原動力の怒りの感情に対して暖かさを感じて、
ホノオみたいな人だとな思った。




この様な事を慮るに少なくとも毎日同じ目線で朝日を見つめられる環境をもって自分が将来何かをしなければいけない義務を感じる。


それがこれからの自分の表現に結びつけられたら、よりニュートラルな自分でいられたら良い。

こんな風に









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