人間は依存しつつ自立する(人間の発達の基礎)

ー 教育の質的転換を求めて(3)ー

 アドルフ・ポルトマンは人間の誕生について次のように述べている。「人間は生後1歳になって、真の哺乳類が生まれた時に実現している発育状態に、やっとたどりつく。そうだとすると、この人間がほかのほんとうの哺乳類なみに発達するには、われわれ人間の妊娠期間が現在よりもおよそ一ヵ年のばされて、約21ヶ月になるはずだろう。」(アドルフ・ポルトマン著 高木正孝訳『人間はどこまで動物か』岩波新書 1961年 61頁)そして、さらに「この人間の誕生時の状態が、一種の「生理的」、つまり、通常化してしまった早産だ、ということは、ほとんど異論がなかろう。」(62頁)
 また、次のように指摘している。「生まれたての人間は、その基本構造からは『巣立つもの』だが、しかし一種独特な両親への依存性をもつことになる。(中略)両親へのこのような特別な方法で依存するのは、哺乳類の中でただ人間だけである。」(72頁)
 しかし、この「生理的早産」が「動物の行動は、環境に拘束され、本能によって保証されていると、われわれは簡単に特徴づけることができる。これに対して、人間の行動は、世界に開かれ、そして決断の自由を持つといっていいだろう。」(95頁)と、この「生理的早産」が人間の限りない可能性を与えている、と指摘している。
 長い引用になったが、人間は生まれたとき、ほとんどと言ってよいほど依存している。もし、誕生したときまわりに両親や大人がいなければ、確実に死を迎えることになる。それほど依存しているのである。
 もちろん全てではない。
 ほとんどの赤ちゃんが、泣くことによって、まわりの大人を引きつける。その泣き声は大人が面倒をみないといけない気持ちにさせる声である。
 また、授乳のために(授乳でなくてもだが)乳首を持っていけば自然にお乳を吸う。
 このように、生まれながらに反射的な行動があり、生存しようとする。
 しかし、もう少し深く考えてみよう。
 泣き声の届く範囲に大人がいなければどうしようもないし、乳首を持っていく大人がいなければどうしようもないのである。
 つまり、人の育ちは依存しなければ生きていけない状態から始まるのである。
 では、依存とはどのようなことなのであろうか。
 依存とは一般的には、「人に頼って成立・存在すること、また、生活すること」である。つまり、自分以外の誰かがいなければ、生存したり、生活したりできないことを言うのである。
 依存の反対語(対義語)は、「自立」である。
 しかし、人は自分以外の者から完全に頼らずに生きていくことは不可能である。これは事実である。
 ここに、人にとっての「依存」と「自立」を考える難しさがある。
 そのため、「人の自立とは何か」ということが議論されてきた。
 ここでは、「自立」と言うことは触れずに、「依存しつつ自立する」ということを考えていきたい。
 人が誕生したとき、そこには必ず自分を生かしてくれる他者が存在しなければ、その後の育ちはない。その他者は大半が母親であり、父親である。そうでない場合も当然あるが、ともかく他者に依存し、命が保たれ、育ちが保たれる。
 しかし、誕生したときの状況は、単に生存の問題だけではない。
 小森陽一は人の誕生時のことについて次のように記述している。少し長い引用となるが、興味ある文章なので読んでもらいたい。
 「それまでのあなたは、おかあさんの胎内の羊膜の中で、羊水にプカプカ浮いて生きてきました。あなたの身体は、おかあさんの身体の中で、完全に外界から守られていました。
 おかあさんとあなたは、臍帯と呼ばれている柔らかなヒモのような器官でつながれていました。(中略)
 臍帯の中には動脈と静脈があり、あなたが生きて成長していくための酸素と栄養物が、おかあさんの血液から胎盤を介して送られてきていたのです。そして、あなたの身体の中の不要物と二酸化炭素は、やはりこの臍帯、ヘソノオとも言うおかあさんとの絆を通して、おかあさんの血液に送られていました。
 つまり、自分で呼吸する必要もなく、食べることも排泄することも、生きることに必要なすべては、おかあさんとの血液のやりとりで済んでいたのです。あなたはおかあさんの体温と同じぐらいの羊水の中に浮いているだけで良かったのです。
(中略)
 それまで羊水にプカプカ浮いていたあなたは、せまい産道を身体中しめつけられながら通過し、外界へと押し出されていくのです。羊水に保護されながら産道を出たあなたは、自分で呼吸をしなければなりません。まだ、一度も空気というものを吸い込んだことのない、刺激物を一度も入れたことのないあなたの身体に、地球の大気が、鼻からそして口から入りこみ、気管支をとおって、無数の肺胞によってできている肺の中に入りこみます。そして、あなたは、はじめて自分の力で空気中の酸素を、血管と肺胞の壁を通して二酸化炭素と交換するのです。
 あなたが自力で初めて息を吸ったあと、あまりの衝撃の大きさに対する、全身体的な驚きと恐怖とともに、はき出したはじめての二酸化炭素のかたまり。
 それが、あなたの『オギャア』という産声だったのです。」(小森陽一著『表現する人々』新日本出版社 2004年 6頁-8頁)
 さて、これを読んでどのように感じるだろうか。
 人は誰もこの記憶は残っていない。記憶に残っていたらたまったものではない。
 誕生のときのこの状況は、人は誕生と同時に「大きな不安と苦痛」を感じている。生存すると言うだけではなく、「不安や苦痛」も周りにいる人によって和らぎ、解消されていくのである。
 その多くの場合が母親である。誕生して直ぐに母親に抱かれることにより、胎内の中で長く聞いていた心臓の鼓動を感じ、体温を感じ、声を聞くことで、「不安や苦痛」が「安心」へと変化してくる。
 それにより、依存することの安らぎを感じ始めてくるのである。
 その後、人はどのように育ってくるのであろうか。想像してほしい。
いろいろな「初めての体験」が次々に生じてくる。この初めての体験を人はどのように受け止めるのであろうか。
 まず感じるのが、眠くなるときの身体の変化、おなかがすいたときの身体の変化である。この変化を初めて感じたとき、人はどのように受け止めるのだろうか。
 大人はこのような変化が生じたとしても、何の違和感もなく生活できるだろう。しかし、ちょっと考えてほしい。どうして違和感なく生活できるのだろうか。このことは赤ちゃんでも同じだろうか。
 当然同じではない。
 赤ちゃんはこの「身体の変化」に最初は「不安」を感じる。その変化を知覚することができるからである。そして、それは、「不快」な変化だからである。
 その「不快」を周りの者に伝えるために、赤ちゃんは泣く。
 泣くしか伝える手段を持っていないからである。もちろん、意図的なものでなく、人がもってうまれた機能といって良いであろう。
 この「不快」を「快」にするために、周りの大人は赤ちゃんとかかわっていく。
 そのためには、赤ちゃんが泣いている原因を的確に知ることが必要となる。
そして、「不快」を「快」に変えてくれる大人の存在をだんだんと認知し、依存を覚え、「安心」の感情を創り出していくのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?