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【週末雑感】真実に近づくにはカネの流れを追うこと

(タイトル画像は、銃弾跡が残る京都御所の蛤御門)

私は歴史が好きで、週末に時間ができると京都や奈良などにふらっと出かけます。日本中、歴史を感じさせる場所は其処彼処にありますが、京都奈良はとにかく宝庫で、私の場合、何十年暮らしても飽きないでしょう。

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(京都伏見区の寺田屋。薩摩藩の尊皇派志士を、同じ薩摩藩の武士が討った場所でもあり、坂本龍馬が伏見奉行に襲撃された舞台でもあります)

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(現在の本能寺。本能寺の変の時は別の場所(ここから徒歩圏内)にありましたが、秀吉の命により、現在の場所に移築されました)

会社は大阪の堺市(出身地でもあります)が拠点で、ここはここで歴史の町。政令市でありながら、特に旧堺と言われるエリア(堺区)は昔の風情を色濃く残していて、自分の青春時代を過ごした場所とはいえ、若い人にとっては退屈だろうなと思ったり。

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(写真は、堺市の南宗寺というお寺の中の坐雲亭という建物で、徳川2代将軍秀忠、3代将軍家光がここの2階で静かに座禅を組んだ場所です。実はこの真下で家康が大坂の陣で亡くなったという「都市伝説」(意外と信ぴょう性あり)があり、2代、3代の将軍がここで座禅を組んだという事実が、その信ぴょう性をさらに高めています)

未来を知るための歴史

未来を知る一番の方法は、歴史を学ぶことだといいます。人間なんてたかだか何百年何千年でそう変わるものではありません。戦国時代を生きた人たちも、平安、奈良、もっと言えば縄文時代(おそらくこの時代は教科書で習うよりも遥かに高度な文明があったと思います)の人たちも、今を生きる我々とほぼ変わってないはずです。

もちろん、時代によって大きく異なる部分はたくさんあると思います。ただ、根本的なところは変わりようがありません。著名な脳科学者も言ってましたが、人間の脳は1万年以上変わってないそうです。1万年前と言えば、日本では縄文時代です。

人間は変わらない。だから歴史は繰り返す。これから何が起こるのかを知るためには、過去を知ることです。

勝者による勝者のための歴史

歴史というのは、時代が古くなればなるほど確たる物証はなく、誰かが書き残したひとつの文書がたまたま見つかって、それが定説になっていたりします。いま「エビデンス」という言葉が流行語のように飛び交っていますが、歴史に「エビデンスを出せ」なんて言うと、特に古代は定説のほとんどを否定されてしまいます。天皇も、第十代の崇神天皇までは実在のエビデンスはありません。古墳なんて、〇〇陵とされているのはあくまで推測です。物証ゼロです

では、いったい誰が書きこ残したのか。もちろん様々なケースがありますが、公的な書物として残る分は、ほぼ「勝者」が書いたものです。戦や政争に勝ち残った者です。であるならば、ポジショントーク満開なはずです。

江戸時代のことは、明治になってから明治政府が創った話が多分に盛り込まれているでしょう。明治政府は徳川幕府と争った薩摩、長州による連合政府のようなものなので、そりゃ話を盛ります。徳川の悪行を殊更強調するでしょう。

江戸以前は、あらゆる歴史書物が徳川の時代になって大幅に編集されているでしょうから、徳川の都合のいいように話を変えているところがたくさんあるはずです。徳川は、家康を神格化するためにあらゆる工作をしたわけで、徳川と対立していた人間を悪く言うのは当然と言えば当然です。

平安時代なんて、頼りになるのは鎌倉時代に書かれた「平家物語」くらいで、これは作者不明ですが、鎌倉時代を生きた公家の一人が書いたという説(吉田兼好の徒然草の記述)があります。平家の生き残りでは当然ないわけです。

半ば神格化されている「武士道」というのもそうかもしれません。この武士道なるものを定義したのは、武家出身の新渡戸稲造が明治時代に書いた著書で、我々がイメージする武士像は、この著書による影響が大きいのだと推測します。

が、元々、武士は裏切りに次ぐ裏切りで生き残ってきたわけで、自分の親兄弟を騙して暗殺するなんてことも珍しくなかった時代もありました。よく、本能寺の変が歴史上最大の謀反と言われますが、戦国時代は謀反なんて道を歩いていたら毎日見かけるくらいのものだったと思います。

家を守るために強い主君に靡くのも当たり前で、「七回主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎が残した(不思議な)家訓も、今我々が理解しているような、主君に絶対的な忠義を尽くすという武士像からは、少しイメージし難いものです。

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では、何が真実なのか。そもそも今ある問題も、対立する二者間で見方が180度変わるのが常であり、軽々に「真実」などと口にするのは不誠実です。ただ、より実態に近い状況を推測(歴史はあくまで推測です)する有力な方法は、カネの流れを追うことです。Follow The Moneyです。

例えば明治維新。私の家は、元々山口県出身で、本家のお墓がある寺の隣には、長州藩(萩藩)の内戦時に、高杉晋作の奇兵隊や伊藤俊輔(博文)の力士隊など、藩の幕府恭順派と対立する諸隊の本拠地(写真)があり、寺の墓地には内戦で亡くなった諸隊の人たちのお墓がずらっと並んでいます。

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(写真は、長州藩最大の内戦「大田江堂の戦い」の、諸隊本陣が置かれた金麗社)

そんな背景もあり、個人的には明治維新なんてもう薩長土肥に肩入れしまくりなのですが、そこでお金の流れを見ると、どうも様子が変わってきます。

当時の世界はフランス、イギリスの両大国による支配が進んでいて、日本も当然その「被支配国」にされようとしていた。私は、戊辰戦争で徳川慶喜が大阪城から逃げたというのは、その危惧もあって自ら収束させたのではないかと思っていますが、とにかくこの両国は日本の支配を虎視眈々と狙っていたわけです。

例えばトーマス・グラバー。彼は、イギリスの貿易商社、ジャーデンマセソン商会の社員で、長崎のグラバー商会はその代理店のようなものです。当時の清国をアヘン漬けにしたのも、この商社です。日本人は想像以上に気位が高く、清国のようにはいかない。であれば、幕府と対立している藩を手助けし、内戦で疲弊させよう。と考えたかどうかは定かではありませんが、何らかの目的でアヘンではなく武器を大量に輸入し、長州を手助けしたことは事実でしょう。

それ以前に、よく「維新の志士」と言われる人たちが、日本中あちこち動き回るお金はどこから出てくるんだ?という疑問もあります。おそらくそれもグラバー商会から来ていると考えるのが妥当でしょう。もちろん、薩摩などは密貿易でお金を持っていたし、肥前(佐賀)も自前の蒸気船や大砲を作るなど、リッチなところでしたが、それだけで維新活動の資金(戦争資金)は事足りるでしょうか?

坂本龍馬は、実は大したことないとかいろんな説がありますが、自分の部屋に龍馬の写真を飾っている私は、一周回ってやはり龍馬は維新の重要な役割を果たしたのではないかと思っています(船中八策などは眉唾ですが)。

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その龍馬にしても、彼の活動資金はいったいどこから来たのか。それを出した人は、何を目的に出したのか。「見返りは求めず、純粋に志に共感して」というのは、あまりにナイーブな解釈です。もしイギリスの商社から出ているのであれば、日本にとっては思いっきり不都合な目的があったと考えるのが自然でしょう。そして、歴史の英雄である「志士」たちは、その駒として動いていたと

ファクトだけを見ると、明治時代になって日清、日露と一気に対外戦争が増えたのは確かです。世の中、本当によくなったのか?と言われると、少し考えてしまいます。だって、教えられてきた江戸時代の歴史は、明治新政府が都合のいいように創作した部分が多く、実はもっと豊かな、農民も商人も結構自由な社会だったのかもしれません。下級武士たちが外国の手を借りてクーデターを起こした結果、できたのが明治政府であるならば、何か見えてくる景色が違ってきます。

そして、令和の今も、明治にできた法律や制度の土台の上で、私たちは暮らしています。

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