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身体感覚と「修景」〜ランドスケープ的に自由な場作りってどういうことだろう #0112

具体的な庭の話から、グッと目線を空に持っていって概念的なお話です。

庭、というかランドスケープを考える時のひとつの問いとして「この空間は自由だろうか?」ということがあります。

空間が「自由」ってどういうこと?という感じもするけど、要するにその空間で動く人だったりモノだったりが活動的かどうか、ということが一つの指標となるわけです。
この辺の、庭の自由さ、みたいな話をつらつら書いてみようと思います。
(特に結論が出ている話ではないのであしからず、、)


ランドスケープは「舞台装置」であり「自由空間」

ランドスケープのひとつの役割は、「舞台装置」だということがあります。(というか勝手に思ってます)

わたくしは個人邸や飲食店の外構を作ることが多いのですが、その外構が舞台として、例えば家族とピクニックする場なのか、仲間とワイワイバーベキューをする場なのか、お店から見て安らぐ場なのか、、という設定をするわけです。
同じ場でも違う設定に変えられるイメージを持てる場にする、、とかも考えますな。

同時に、装置という機能的な要素を取っ払ったオープンスペース(自由空間)である、という存在でもあるわけです。面白いもんで。
元々のランドスケープの発想は、オープンスペースを景色として修めていくことにあると思うんですよね。ランドスケープを日本語で「修景」とはよく言ったもので、機能面よりは風景をいかに修めるか、ということがメインイシューなわけです。

つまりオープンな場(すなわち「庭」)を、異なる機能を持つ空間としてセットする(修める)ということがランドスケープ的な解釈かなーと思っております。
これは要するに、劇場の舞台空間を作ることに似ているのかな、と勝手に解釈しているわけです。

言わずと知れたハイライン
都市の舞台装置ですな

庭には不自由さがある

さて。オープンスペースの自由さを考える一方で、庭というのは不自由なものである、とも言えるのです。

どういうことかと言うと、さまざまな制約を受けて庭は成立しているってことですな。
特に施主がハッキリとしている庭の場合、そもそもの施主さんの考えや趣向、予算や空間的な範囲、使える資材や建築的な制約、、などなど、カメラの焦点を絞っていくようにどんどん条件を鑑みて、できることが絞られていくわけです。

パブリックなスペースの場合(自分の場合はこの仕事はほとんど受けていないが)より調整事項は広範になっていくことが予想されます。「施主」と言う明確なオーダー主が決まっているわけではなくて、社会全般「各位との契約」みたいな感じで成り立っているとも言えそうです。

何にしても、オープンな場を自由にしていくには制約事項もアレンジした上で自由にしていくことが要件になってくるわけです。
ここは毎回悩む部分ではありますね、、。

しかし制約という「枠」があることで自由になることは大いにあります。漫画家も、締め切りがあるから発想できるっていうしね。次の項でも書きますが、やっぱり人間、制約があると発想が生まれるということは大いにあって、この辺りの庭の不自由さというのは自由に転換できる契機だとも思うのです。

わたくしの好きな街オーフス
元々暗渠だった川を、あえて川の風景として使っている

オープンスペースの何が自由なのか

では、何がオープンスペースの自由なのかと言うと、それは舞台装置の中で動く人やモノが自由に動け回る、ということなんだと思うんですよね。いわゆる動線設計ってやつです。

オープンな場だったら、そもそも自由じゃないか!と言われそうですが、オープンな場って結構「困る」んですよね。特に大人は、その場をどう解釈して良いかわからなくなります。
ちなみに子供は違います。何もない場でも、新しい「遊び」を発見できるという天才です。わたくし、これは社会的な制約を受けていない自由さが関わっていると思っています。

わたくしたちの行動というのは、知らず知らず社会の制約や決まりごと、みたいなものの影響を大いに受けて成り立っています。
例えば現代日本では、当然のように受験をして就職する、という一般ルートがあらかじめ暗黙の中で決まっているから選択をしています。これが例えば中世であれば、教育という道筋は職人的な世界や貴族的な世界の中で成立しているわけで、人間の一生のルートというものも現代とはだいぶ違っていそうです。

これは大きな制約ではありますが、身の回りの制約として、例えばジェンダーや家族構成、人種や生まれた場所や言語、お金を持っているのか、家はでかいか小さいか、、などなど、周りの有形無形の環境が勝手に制約を作り出していくのです。

なので、ランドスケープがやろうとしているのは、「ここで座れば休めるよね」「ここは水辺で遊べそうだ」とかゆるい枠を作っていることだと思うのです。
このゆるさってのが大事で、ゆるい「遊び」の部分で文字通り勝手に発想して自分たちなりの場の使い方を発見していけることが自由さだと思っています。

ところが、日本の場合はこの辺の枠の作り方が「ボール遊び禁止」とか「大声を出さない」という禁止事項で成り立ってしまうので、この辺をデザインで解決していこう、ってのがミソだと思っています。

ちなみに、今後は表層的な使い方だけでなく、生態系や社会的な位置付けや配慮を組み込んだステージづくりというものが大事になってくると思っている派です。
現在のデザインが50年後100年後につながる風景であることを意識した場づくりというのは、今後とても大事になってくると思います。(この辺で書いてます↓)

身体感覚と「修景」

わたくしは、大学時代に身体感覚を学んでいたこともあって、自分の体が受容していることってのが周辺環境の認知につながっていると思う派です。

なので、景色というのは受け手個人の「体の状態」に大いに関わっていて、風景は自分の体から出発していると思っています。
どういうことかというと、「風景の中に自分がいる」ということよりも「自分があって風景を見ている」という「考える葦」的な見方です。

風景はただ「ある」ので、解釈を加えるのは人間の状態です。
なので、人間の状態が例えば「立っているのか座っているのか」「健康なのかそうでないのか」「満足しているかしていないか」「リラックスできているのかいないのか」「一人でいるのか手を繋いでいるのか」などなど、によって景色は異なってくるはずです。

で、あらゆる状態の人が何かしらの自由な解釈をしうる場として機能できているか=景色を修めているのか、というのがランドスケープの真ん中なんじゃないかなーと思っておるのです。

いやはや。全く今の自分ができているとは思わないけどね。
でも、考えながら手を動かすってのは大事なことだと思うんです。

ではでは!

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