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子どもの心の支えになるための、たった一つの行動指針

なりたい大人像


いざという時に、子どもが自分を頼ってくる。
そんな大人になりたい。

大なり小なり何かあったら、ここに来れば気持ちが安らぐ。
そんな場所をつくりたい。

Believers /ビリーバーズ というコミュニティがある。
そこには、私がなりたいと思い描く大人が居て、そんな場所づくりを現実にしている人が沢山集まっているコミュニティだ。
特に、不登校の子どもたちやその親たちの居場所をつくっている。
学校に行かないことを選択できる時代に、必要不可欠な場所のように思う。

<ビリーバーズの説明動画はコチラ↓>

私はまだこのビリーバーズで何かできているわけではない。


ただ、メンバーになっていることで、頭の片隅でずっと考えているのが、子どもと接するのに、どんな振る舞いをする大人でいれば、子どもの支えになれるか、居場所だと感じてもらえる空間が作れるかということだった。

自分の子どもに対しても同じで、
思春期に差し掛かった娘との関係は、
無条件に愛で繋がる母子の関係とは別に、
ちゃんと自分の意思で関係性を築いていく必要があると感じるようになった。


信頼関係を築き、
支えとなること、
勇気づけることができる存在であること、
愛されていると本人が実感できるには、

ただ一緒にご飯を食べ、
夜ご飯でおしゃべりをし、
たまに旅行したり、
出かけたり、
日常で勉強しなさい、片付けなさい、手伝って..
そんなコミュニケーションの繰り返しでは築けないと痛切に感じる日々。


”勇気づけ”られる大人になりたいと思って、アドラー心理学も学んだりした。

それでも、私が求めるものとは少し何かが違うと思った。

まだ、どんな態度で接するか私なりの答えは見つからなかった。

もっとその手前にある、
人と人が心から安心を感じるような関係、
いわば愛だ。
子どもが”愛”を感じるためにはどうすればいいか。

その行動指針のようなものを探していた。

そんな指針があれば、どんな子どもに対してもしっかりと子どもと向き合える、自分自身がふわふわせず堂々と付き合える、そんな気がしていた。


子どもの不安


日々、娘を見ていて思う。
私が叱ったり、怖い顔をすると、どうも不安になるらしい。

嫌われるのではないかと、心の奥底で何かが脅かされるのかもしれない。

娘は私と一悶着あった後、どこかのタイミングで必ずスキンシップを求めてくる。
いつも一緒に居る血の繋がった親子でも、「ママ好きだよ〜」と言ってくる娘に、頻繁に「ママも〇〇のことが大好きよ」と言うようにしていても、まだ不安になることがあるんだと反省する。

そんな反省をする中、他人の子どもに対して、どうすれば安心の人、安心の場所になれるのか。
そんなことを頭の片隅で考える中、ある学習塾の先生の言葉に出会った。


愛はひいき


”花まる学習会”をご存知だろうか。

学習塾。
子どもが生まれて以降、何度か”はなまる”の単語を聞いたことがあった。かなり有名だということがわかった。


でも私は、小学生の塾通いに抵抗があった。
どちらかといえば、日本の受験制度が生み出す勉強スタイルには反対で、良い教育を子どもに与えるとはどんな選択をすればいいのか悩んでいた。

が、いよいよ必要性が出てきた。
イギリス生活4年で帰国、3年生から日本の学校に通学するも、漢字が覚束ない。
算数もイギリスと日本ではスタイルが異なり、いわゆる日本的な基礎が身についていない様子。
家での反復的な勉強は、まさに親の試練といった具合で、”子どもにやらせる”ことができない。

これは外に反復の場を作るしかないと、進学塾でない路線でサポートしてくれる場所を探した。
作文を書く習慣もつけたかった。


そこで見つけたのが、
「メシが食える大人」に育てる。

をモットーにされている高濱正伸先生の設立した花まる学習会だった。

あーこれがよく耳にした”花まる”かと、結局そこにたどり着いたのかと思った。


そして先日、高濱先生の無料講演を聴講できる機会を得た。

そして、この言葉を聞いた。

「愛はひいき」



”ひいき”は良いこと


そうか、そうなんだ。。へーそうか。んー確かに。そうか〜。
そんな感じだった。
妙に納得した。
ひいきされること程、わかりやすい愛情表現はない。

「ひいき」という言葉を聞いて、色々な記憶が呼び覚まされた。

先生がひいきしている生徒は、なんとなくみんなに特別な視線を向けられていた(と思う)。
ひいきがあからさまな先生は、およそ全員の生徒が嫌っていた。無言の連帯感。

だけど、たった一人の時に、

自分とその人しかいない空間で、

自分だけに何かくれたり、

何か自分に特別な言葉をかけてくれたり、

自分だけに向けてくれる優しい表情を見た時、

それはとても幸福な気持ちで、その人と自分だけの秘密のような甘い時間が流れる。


私が個人的にそんな特別な存在がいたかというと、ん〜あまり思い当たらないが、でもそれがどんなに嬉しいことで、どんなにか子どもの心を癒すかはわかる。なんでわかるんだろう。
忘れているけど少しは経験があって、身体が覚えているのかもしれない。

私の母は昭和の普通の母で、3人の子どもに対して常に平等に扱うことをモットーとしていたと、大人になって気がついた。ひいきにされた記憶はない。
あ〜、でも叔父にとても可愛がられていた。兄と姉と私と三人ともだけど、他のいとことは違う特別感があったな〜。
思い出すと、やんわり頬の筋肉が緩む。

信頼していた先生のことも一人思い出す。
自分だけに向けてくれた言葉とか、表情とか、自分をわかってくれたと感じた経験とか、そういう時間があって、実際、心の頼りにしていた。


思えば、友人関係でも同じ気がする。

みんな、特別扱いをとても好んだ。
ことに女の子同士の付き合いでは、”自分にだけに話してくれる”という行為を求められた気がする。
それが”特別な存在”の証かのようだった。
つまり愛情表現の形だった。
割と満遍なく仲良い人が複数いた私は、実は特定の友人をひいきにすることは苦手だった。
それに愛情不足を感じている友人がいたことは、胸が痛む思い出として忘れていない。

誰かの特別になれる喜び


”特別感”を与える。
どんなことをされると特別感を感じるかは、相手によるだろう。
年齢、性別、その子の個性、自分との関係性。

だけど、その”ひいき”の姿勢が大事なんだと。

よくよく脳内イメージを膨らませる。
ひいきすることは、”あなたは私とって特別よ”という気持ちの現れだけど、その前に、自分自身のことも同じくらい大切に思っているからできる表現だと思う。
気持ちのボールを投げ、受け取ってもらう行為だから、
”こんな私なんて”と思っていると、ボールが投げられない。

だとすれば、子どもをひいきにするために、ボールを受け取ってもらえる大人でいようという気持ちになる。



ひいきができる大人になろう。

これが私の行動指針だ。見つけることができた。

”私はあなたの味方よ”
そんな気持ちを、時にコッソリと、”ひいき”して表す。

この年になって、ひいきが良いことだと知った。

ひいきすることがちょっと楽しみになって、悪戯心で顔がにやける。

愛はひいき。

高濱先生が出した答えに便乗しよう。

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