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正弦定理4

正弦:理:定
「あんたこそ誰?」
「誰じゃと?このわたしを知らんのか?」
「知らない」
「そなた、都の人間ではないな」
「山も森もないこんなとこ、わたしには住めないわ」
「なるほど。山と森がよほど好きなようだ」

その女は黙っていた。黙ったまま矢をこちらへ向けている。
「そもそも。なぜわたしにそんなものを向けておる?」
「あんた、人間?」
おかしなことを聞かれた。まあ、普通の人間ではないとは思っているが。一応、
「人間だと思っておる」

女はまた黙っていた。
「名を聞こう」
「は?」
「そなたの名じゃ」
「そっちから言って」
正弦は笑い出した。
「面白い。なぜこの屋敷に入ることができて、しかもそんな物騒なものを構えておるか知らんが、誰の屋敷かも知らずに入ったか?いいだろう。私から名乗るとしよう。わたしは文明神社の巫女、正弦じゃ」
「……正弦様?」
女はようやくわかったようだ。自分が今、矢を向けているものの正体が。
あわてて矢をおろすと頭を垂れた。

雨が、すこしリズムをゆるくし始めた。

「大変失礼しました!お名前しか存じ上げず・・・」
「それは良い。そなたの名は?」
「はい。秋月理と申します。長年、その・・・」
「どうした?」
「正弦様の前で偉そうなことを言うと思われるかと・・・」
「偉そう?」
「秋月家はその、物の怪と戦う役目を担っております」

秋月家。聞いたことがあるような気がする。
物の怪と戦っている一族がいると。

神妙なふたりの空気を、突然、定の間延びした声が濁した。
「正弦様?いかがされましたか?」

定:正弦:理

最近寒くなってきたのはわかっていたが、薄着が過ぎたようだ。
定は、午後から寒気に襲われてふせっていた。
しかし日課が身体に染み付いているようで、いつもの時間になると目が冷めた。
雨が降っているようだ。
今夜ばかりは行けそうもない。

しかし-妙なざわつきを感じた。
正弦ならこのざわつきの正体が見えるのだろうか?

『四の五の考えずに、感じたものに素直になるがいい』
いつか正弦が言っていた。
『民は余計な考えばかりに気ぜわしい。だから大事なものが見えないのだ』

いまだによくわからない。
が、このざわつきに素直に従ってみようかと定は思った。
ふらつく身体を起こして、中庭に向かってみた。

ざわつき、正解だったのか。
案の定、誰かがいた。
正弦と何やら話している。
「正弦様?いかがされましたか?」
正弦は、ちらっとこちらを見た。

ろうそくの火で照らす定。浅黒い女の顔が浮かび出た。
「女ではないか。正弦様に何の用だ!」
いまこそ正弦を守るその時だ!定は熱いものがこみ上げるのを感じた。
さあ!正弦!お守りします!この私が!

しかし正弦は落ち着き払っていた。
「定」
「はい!」
「いいからそこでじっとしていなさい」
熱いものの行く先を封じられた。定は前のめりになったまま
「へ?」とつぶやいた。

「ぷっ」
一瞬、怪しい女が笑った。
「きさま。何を笑っておる」
女は真顔になると
「あ。いいえ」と目をふせた。

「定」
「あ。はい」
「ここにいてもいいが、言動禁止じゃ」

定は固まった。子犬のように。
女がまた、クスリと笑った・・・ように見えた。

固まった定をよそに、ふたりは話を再会した。

「その秋月家が一体この正弦に何の用だ?」
「いえ。あの」
理と名乗る女は戸惑っているようだった。
「言うが良い。怒りも失礼も聞いてから決める」
“怒られても不愉快になられても困るから戸惑っているのに”
女はそう言いたげだった。
わかる。非常にわかる。
正弦という女はこういうところがある。
定は固まった子犬のまま、目を瞬きながらこう思った。

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