正弦定理2
□理(みち)16才
「またか」
理は草むらにわずかに残った痕跡をみるとつぶやいた。
雑草の先っぽがかすかに焦げている。
よおく目を凝らすと、所々に痕跡がある。
「最近家畜がいつのまにかいなくなるんじゃ」
長(おさ)の言葉に異様なものを感じ、愛用の弓を携えてここ数日見回りをしている。
黒髪を、きっちりと後ろの高い位置で結んだ理は、男のようなかっこうをしている。
森や草むらで目立たないような緑色の装束。袴は普通のよりもずいぶん上の方でしぼってある。華奢な彼女の足の形が、よくわかる。
山で、鳥や獣を狩ってはそれを売って生活している。
しかし、仕事はそれだけではない。
秋月家は、本来、目に見えないものと戦うために弓を持たされていた。
そう、目に見えない魑魅魍魎(ちみもうりょう)と、秋月家はずっと戦っていた。
秋月理(あきづきみち)―それが彼女の名前だ。
□定(さだ)23才
「そなたをお慕いしています」
その一言が言えないでいた。
民のために気を張って生きる女を守りたかった。
定は大きなため息をつくと、月を見上げた。
この廊下から見る中庭の対局に正弦の部屋がある。
小さな中庭なのでわずか数歩でたどり着く距離。
しかし定にはそれが、永遠にたどり着かず交わらない距離のように感じていた。
女々しい男だ。
何をしている?と問われればいつも「ここから見る月が綺麗で」と答えている。
そのうちに本当に月を見るのが日課になってしまった。
それに、ここに居ればいつだって彼女を守ることができる。
ふいに
部屋の戸が開いて正弦が廊下にあらわれた。
ちらっと定をみた正弦は、定と同じ方向を見た。
「月がきれいじゃのう」
「はい」
「のう、定」
「はい、何でございましょう?」
「明日も平和かのう」
「…ええ。きっと」
正弦は少しの間黙っていた。
「なにかおかしなことを見聞きしていないか?」
「おかしなことですか?はて…わたしのところへは届いておりません」
「なら良い」
見えたなら良かった。
彼女の憂いの原因が。
『あのことでございましょう?』
そう言えたなら良かった。
自分がただの人間であるのがただただ悔しい定だった。
□理(みち)
「熱っ」
理は、指先にチリっとした熱さを感じた。
確かに何者かを射止めたはずなのに、弓矢は地面に突き刺さっていた。
その弓矢を引き抜こうとして触れた瞬間の事だ。
『・・・え・・・に・・・かる』
指先から侵食するようにゾワッとしたものが伝わってきた。
「姿を見せなさい!」
日が暮れだして付近は赤く染まっていた。
風が、草むらをなぎ倒しながら遠のいて行った。
「待ちなさい!」理はその風を追って走り出した。
続く