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「我思う」ではなく「我を見ろ」「我を聞け」? ハイデガー 「私を」による「私は」の召喚

「我思う」
ではなく

「我を聞け」
「我を見よ」

「私を」
は明かす
「私は こんな奴だ」
と。
「良心の声」による「存在の召命」
前主体的 前歴史的 脱自存在。

自らの負い目=負債を語る良心の呼びかけ
を聞く
それは呼び求める 
呼び出し
命令する
「ここに私を見よ」
良心の分析を
ハイデガーは「存在と時間」で開始し
「ヒューマニズム書簡」や「形而上学と何であるかへの後記」においても継続
それを「存在の呼び求め」と名付けている

呼び声はどこから来るのか
自身にとっても不気味な良心の声が
おのれ自身を意志に反して呼ぶ

良心において
その良心は自らを開示する
己を見よと

それは自身にとっての見知らぬ声
でも自身の友
誰でもなく最も自身を愛する最愛の親友
自身の亡霊 

我思うの破綻 
「は」の破綻
「我を聞け」という
自身の亡霊=良心

「私は」
「私を」
「疑わしい者」
「問い質される者」
として
召喚し

「私を」は
「私は」の
「無効を明かす」
とジャン・リュック・マリオンは「言葉を中断された者」で言う (in 「主体の後に誰が来るのか」)

確かに「無効」を明かしている。
でも「友」なのだ。

この神秘に関しては
元神戸大学精神医学名誉教授 中井久夫先生が最も美しい言葉を残している。また原文をnoteに引用しようと思うが
とりあえず…こうだ

これはあたかも
過去と未来の自分が
現在の自分を必死に助けるために
やってきたかのようだ…

これを読むと
私はいつもディケンズの信号手を思い出す

「その怪しい影が初めて危険信号燈の下に立った時に、どこに事件が起こるかということを、なぜ私に教えてくれないのでしょう。それがどうしても起こるのなら……。そうしてまた、それが避けられるものならば、どうしたらそれを避けられるかということを、なぜ私に話してくれないのでしょう。二度目に来た時には顔を隠していましたが、なぜその代りに〈女が死ぬ、外へ出すな〉と言わないのでしょう。前の二度の場合は、その予報が事実となって現われることを示して、私に三度目の用意をしろと言うにとどまるならば、なぜもっとはっきりと私に説明してくれないのでしょう。悲しいかな、私はこの寂寥たるステーションにある一個の哀れなる信号手に過ぎないのです。彼はなぜ私以上に信用もあり実力もある人のところへ行かないのでしょうか」

その答えは
誰よりも
「私は」「私を」
「私を」「私は」
助けたかったからです。

—『世界怪談名作集 06 信号手』チャールズ ディケンズ著
https://a.co/0vOibJZ

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