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サクランボじゃなくてカニのほう

私が幼い頃に通っていた保育園では、園児ごとにシールが割り振られていた。シールの絵は、自動車やUFO、チューリップやヒヨコなどだっただろうか。部屋の窓際に棚があって、自分のシールが貼られた場所のフックに持ち物を引っ掛けるのだ。

当時の友達に、下の名前が私と同じ子がいた。色白で儚げで可愛らしい女の子だ。その子のシールは「サクランボ」。ツヤツヤした2つの丸い実は、誰が見ても、彼女にぴったりなモチーフだった。一方、私のシールに描かれていたのは「カニ」。両腕のハサミを勇ましく振り上げるその姿から連想されるのは、可愛らしさというよりも滑稽さやひょうきんという言葉だった。

なぜ同じ名前なのに、私のシールはキュートなサクランボではなく、間の抜けたなカニなのだろう? 自分でシールを選んだ覚えがなかった私は、それが先生たちの陰謀だと信じていた。「可愛いほうのトモコにはキュートなサクランボが、可愛くないほうのトモコには間抜けなカニがお似合いだ」、先生たちは思ったに違いない、と。

「名は体を成す」という言葉がある。私がトモコらしいかどうかなんて考えたことはないし、トモコらしく生きようとも思ったことはない。しかし、四六時中こびりついている自分の名前よりも、私はあの幼少期にあてがわれたカニのシールによって、自分のイメージみたいなものが形成されたのではないかと感じている。

「サクランボではなくカニの方」、「キュートではなく間抜けな方」……。いわゆる高校デビューも大学デビューもしないまま、垢抜けられずに大人になったことさえも、いつの間にか自分がカニだっだせいにしていた。私はずっと、華やかさとは程遠い、太鼓持ち的な立場に落ち着くしかないと思っていた。カニなのだから。

今ごろ、もうひとりのトモコちゃんは一体どうしているだろうか。きっと幼き日の可憐な面影のある素敵な女性になっていることだろう。長年、サクランボに憧れながらカニとして生きて来た私は、もしも今になってサクランボのシールを貼られたとしても、たぶん垢抜けられない。

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