余白を歩く 《鎌倉書房と雄鶏社》



小学生の頃、私は料理や手芸といった実用書の類の本に目がなかった。小学館から出ていた『ミニレディー百科』(時代を感じるネーミングだ)に始まり、昭和のアイドルが表紙になった学研の『手芸フレンド  ピチ』『料理フレンド  メル』に夢中になっていた。なぜそんなに夢中になっていたのか、記憶をたどると幼い頃家にあった『LIFE 人間と科学シリーズ』に行き着くような気がするのだが、話が脱線しそうなのでやめておく。


雄鶏社は、手芸が好きな人には馴染みのある名前の出版社だろう。私も雄鶏社の本をたくさん持っていた。雄鶏社の本とともに、私の手芸づくりはあったと言える。粘土細工、フェルト手芸、編み物、刺繍、袋物…。手芸の世界にも流行りすたりがあり、当時はフェルトでマスコットや小物を作るのがブームだった。武蔵小金井の長崎屋に手芸店が入っていて、フェルトや刺繍糸を買いに行っていたのが懐かしい。編み物は減らし目や増やし目が難しく、真っ直ぐにしか編めなかったが、それでも大好きな手芸のひとつだった。
高校生になると、吉祥寺のコットンフィールドという店に行くようになった。布地を扱う館と、ビーズやボタンを扱う館が向かい合わせで建っていて、アメリカンコットンの多彩な柄や、ファッショナブルなデザインビーズなど、見ているだけで時間が経つのも忘れるような夢のある店で、閉店したのを知った時はショックを受けた。


小学校四年の頃、流行りの肺炎で入院したことがあった。そのとき親戚の叔母さんが、暇だろうと思ったのか『お料理はお好き』という料理の本を差し入れてくれたことがあった。当時の私には、本格的な料理の本ということで敷居が高く感じたが、その後たびたび開いては眺めていた。鎌倉書房という出版社から出ていて、料理研究家入江麻木さん(指揮者小澤征爾氏の義理のお母様にあたる)の素晴らしい家庭料理の数々を、チャーミングな文章とともに紹介した本だ。料理もさることながら、私は料理にまつわるエピソードがふんだんに盛り込まれた文章に魅せられていった。佐伯義勝氏による凝ったテーブルセッティングで彩られた数々の料理写真も、本当に美しかった。文章、写真、イラスト、レイアウト、鎌倉書房の料理本は全てがハイクオリティ(オーバークオリティとも言える)で贅沢なものだった。
叔母さんは「くれた」のではなく「貸してくれた」のかもしれない。しかし、私はその本を勝手に自分のものにしてしまった。ところがあんなに好きだった本は、実家の建て替えとともに何処かにいってしまった。数年前にネットオークションで買おうしたら、二万円ほどしていて手が出なかった。
鎌倉書房には『ドレスメーキング』という月刊の洋裁雑誌もあった。悲しいかな洋裁技術がないため、一度も作ることはなかったが、お店で売っているような服が製図とともに掲載されていて、いつか型紙を起こして作るんだ、とワクワクしながら何度も何度もページをめくっていた。


雄鶏社も鎌倉書房も、今はなき出版社だ。先日たまたま雄鶏社の本を購入しようとして、私は雄鶏社の倒産を知ったのだった。あの頃買った雄鶏社や鎌倉書房の本は、ほぼ全て処分してしまった。後悔しかない。子供が生まれ、子供の服を作るようになると手芸熱が蘇った。たまらなく懐かしい本たちを、ネットで検索しては少しずつ買い集めている。
料理は家族の好みがバラバラで、残されることが多いせいかすっかり嫌になってしまったし、子供達が大きくなってきた今、手芸も忙しくてする時間がなくなってしまった。けれど、おばあちゃんになったらまた手芸やお菓子づくりをしたいと夢見ている。


出版不況と言われて久しいが、料理や手芸がすたれているわけではない。ただ、レシピはレシピサイトで無数に見つかるし、型紙や編み図がダウンロードできるサイトも本当に増えた。対して実用書は間違いがあってはいけないので、校正も時間がかかると聞く。レシピサイトで明らかな分量間違いや手順のすっぽ抜けがあるたびにがっかりし、鎌倉書房や雄鶏社の本を愛おしく思う自分がいる。やはり本に勝るものはない、そう思ってしまうのだ。





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追記

雄鶏社は、かつて向田邦子が勤めていた出版社としても知られる。脚本家・作家としてデビューする前、向田邦子は雑誌『映画ストーリー』で編集者として活躍していた。私は『向田邦子の手料理』(1989年 講談社)という料理本を持っているが、その本に雄鶏社時代の向田邦子の先輩だった翻訳家、井上一夫氏とのエピソードが掲載されていたので、紹介したい。

 「僕が彼女に教えてあげたのは、これくらいだったかなあ」
 カフェ・ロワイヤルを入れながら、井上さんはつぶやいた。スプーンに角砂糖を2個。上からブランデーを注ぎ、火をつけ、カップの熱いコーヒーに落とす。
 「ブランデーを入れるとき、コーヒーの中にこぼれちゃう。そうすると『もうかったあ』なんてキャッキャッ、笑うんだよね」
 井上さんと向田さんの出会いは、40年近く前、二人が雄鶏社という出版社で働いていた頃。もう少し詳しくいうと、向田さんの入社試験の問題を作ったのが井上さん。さらに採点をし「これだけの文章書けるやつ、うちの社にはいねえぞ」と試験の作文のうまさに仰天し、どなった人でもある。
 〜中略〜
 夜、外で飲んでいて、最後の一軒がわりに向田さんの家へ押しかけたこともあった。

 「ゴキブリって知ってる?『飲んべが突然、来たときのため、アッチ(私)の作りおきなんだ』とか言って、出してくれたんだけど」
 『ゆで卵のソース漬け』のことである。ネーミングのすごさにドキッ。出てくれば、そのうまさにウーンとうなり、今でも井上さんにとって忘れられない味になっている。

 外で飲んでいて、電話で誘い出したこともしばしば。すると決まって「ババア芸者参上」の言葉と共に飛んできた向田さんだった。
 「いい年した男と女だけどさ、なんかそんなこと関係ないサバサバした付き合い。だから気分良く、長いこと付き合えたんだよね」
 そして、その付き合いのよさを改めて井上さんは思い出す。
 「それだけ、彼女は忙しかったんだよ。暇だったら、自分で計画たてて、何かやるはずだよ。きっちり時間がつまっているだけに、時間の谷間みたいにしてさ、きっかけがあったら、スポーンと抜け出しちゃう……。わかるんだ、そういう気持ちって……」