さよならVOXY


愛車を手放した。
トヨタVOXY。娘が生まれた年と同じ平成19年製。クルマ屋だったダンナが、10年ほど前に業者オークションで探してきたクルマだ。
2年前にダンナがガンで亡くなって3週間後に車検が切れたが、店の片付け等でまだクルマが必要だったのであわてて車検を取った。それが今回また切れるタイミングで手放したのだ。クルマ屋だった我が家がクルマを手放す —— 思いもしないことだったが、維持費を考えると仕方なかった。
手放したのは車検が切れる前日、ちょうど息子の誕生日だった。


結婚前、ダンナは真っ赤なマツダRX-7(FD君と呼んでいた)に乗っていて、出会った時もFD君のアイドリング中だった(デートの時は必ずドリフト走行してくれた。宇多田ヒカルのシングルCDがエンドレスでかかっていて、車内はお世辞にも綺麗とは言えなかった)。もう一台、マツダファミリアのステーションワゴンを持っていて、主にこちらを普段使いしていた。結婚後もしばらく乗っていたが、子どもが生まれ、トヨタNOAHに乗り換えた。今思うとシャコタン好きなダンナがこのタイプのクルマを選ぶなんてありえないが、何年か乗った後、再び同じ系列のVOXYに乗り換えた。中古だったが状態は良く、小さなトラブルを直しながらずっと乗り続けてきた。
実用性で選んだのでダンナはこのクルマに愛着といったものはなく、割り切って乗っていたと思う。実際「オレ、休みの日は運転したくねーや」と言って、私が運転することが多かった。そのくせいちいち運転に文句をつけられるものだから、私も次第にクルマの運転が嫌いになっていった。60になったら免許返納するわと息巻いたら、ダンナは困ったような顔をしていた。
ランチアストラトスかフェラーリに乗るというダンナの夢は、ついに実現しなかった。私はカウンタックかデロリアンがいいと言ったら、ダンナはニヤリとしていた。


VOXYの思い出といえば、ダンナの店で定期的に開催していたオフロードバイク(クルマだけではなくバイクも扱っていた)のイベントで相模川に行ったことと、毎年元旦に浅草寺へ初詣に行ったことだ。小さかった子どもたちも連れてVOXYが大活躍だった。


バイクイベントではバーベキューをすることになっていたので、前日からVOXYで買い出しに行き、仕込みをした(仕込みはダンナ担当だった)。当日朝子どもたちを起こし、前の晩仕込んであった材料や凍らせた飲み物をVOXYにどんどん積んでいく。店に向かい、今度はトランポにする軽トラにバイクを目一杯積み、お客のクルマと待ち合わせて相模川に向かう。ダンナは軽トラ、私は子どもたちを乗せたVOXYを運転するのだが、信号で離ればなれにならないように必死だった。帰りはすっかり暗くなっていて、子どもたちはぐっすり寝ている。ダンナと仲間が店の前に軽トラを付け荷降ろしする間、私と子どもたちはVOXYで待機する。その後マコちゃん(いつも手伝ってくれた仲間だ)も入れて近所のファミレスで夕食を食べて帰宅する。帰ったらまた荷解きが待っている ——。
大変だったが、やって良かったと今では思う。ダンナは亡くなる前までまたバーベキューを開催したいと熱望したが、実現できなかったのが悔しい。


浅草寺への初詣。これはダンナが独身時代から続けてきた「ルーティン」だった。
だが初詣にも浅草寺にも縁がなかった私には、寒い大晦日(昼間に行くのじゃ駄目らしい)に電車で行く浅草が苦痛で、結婚翌年だったか大雪が降った年に大喧嘩になったことがある。実は浅草寺の前に横浜の中華街で年越しの爆竹を聞くというさらなるルーティンもあった。正確に言うと、横浜の中華街で食事をし午前0時の爆竹を聞いてから浅草に移動、仲見世通りの揚げまんじゅうを食べてから浅草寺で初詣をし心願成就のお札を買い、出店で腹を満たしながらおみくじを引いて帰る(なんだか食べてばかりだ)という流れだ。私は毎回心の中で「めんどくせー!」と叫んでいた。
ダンナには生きていく上でいくつかのルーティンがあったが、おそらくそのどれもがゲン担ぎだったんだと思う。ルーティンだからそれを崩すという発想は少しもなかった。子どもができお腹が大きくなった年、さらにその子どもが生まれた翌年にも決行された。いま思い返すと笑ってしまうが、当時は笑い事ではなかった。
やがて私もヒートテックと経験値を重ね、そして何よりクルマ移動に変わってから快適な初詣のコツを掴んでいった。VOXYのおかげだ。わいわいガヤガヤ会話しながらの移動も楽しかった。深夜の浅草の、あの独特の雰囲気も好きになった。最初は行き帰りともに運転はダンナの担当だったのが、いつの間にか帰りは私の担当になっていた。午前3時くらい、当然私以外はみんな寝ている。ずるい。しかし帰る頃には今年も行けたという満足感を感じていた。次第に私の中でも初詣は「ルーティン」となっていったのだ。
不思議なこともあった。夜9時くらい、家を出発してまもなく通りかかった道で、脇の茂みから大きなボールがポーンと飛び出してきた。子どもがドッチボールで使うようなボールだ。ボールはポンポンポンと跳ねてヘッドライトに照らされ道路の真ん中で止まった。ダンナと私は顔を見合わせた。幸い大してスピードを出していなかったので何事もなかったが、誰もボールを取りに来る気配はなく、そもそも人気もない。あれは一体何だったのだろうか。「見える」体質のダンナには何か見えていたんだろうか。
残念なことにコロナを境に四人で初詣に行くことはなくなってしまった。病院で事務の仕事をしていた私は娘と残り、ダンナは息子を連れて二人で行くようになっていた。ダンナが亡くなったいま、もう四人で初詣に行くことは叶わない。そう思うと沢山の思い出がよみがえってくる。
昨年は娘が高校受験で息子と二人でVOXYで浅草に行った。今年は行けなかった。来年は息子が高校受験だ。再来年は娘が大学受験だ。一体いつになったら全員で行けるんだ、とダンナはヤキモキしていることだろう。


2年前にダンナが亡くなった後は、片付けのためにひたすら店と自宅をVOXYで往復した。退去は2カ月後に迫っていた。整備士のマコちゃんが動いてくれて何とかなった。切れそうになっていた車検もマコちゃんにお願いした。行き帰りの車内では、ダンナの好きな文化放送をいつも流していた。ダンナが亡くなったことがどこか実感できず、ひょっとすると横断歩道を渡る大勢の人の中にダンナが混じっているのではと思ったりした。


今年に入りVOXYを手放すことはわかっていたが、日々に追われ思ったように準備ができないままその日は近づいていった。それでも自分なりに手放す段取りを付けていった。
まずは年明け。娘、息子、飼い犬を乗せて父の住む山梨に行った。思えばこれも家族の恒例行事だった。サービスエリアが大好きなダンナの主張で、必ず談合坂サービスエリアに寄るのだが、もちろんこのときも寄った。日本のサービスエリアは本当に凄い。トイレが清潔なことはもちろん、お土産や食事のバリエーションが豊富で出店もいろいろあるし、焼きたてのパンまで売っている。極めつきはドッグランだ。飼い犬マッチャが大好きな場所だ。くそー、楽しいじゃないか。
次に週末になると息子と二人でVOXYに乗り、思い出の店に食事に行った。帰りに昔のダンナの店の前を周り、近くの夜桜並木を息子に動画撮影してもらったりもした。娘は1月から留学に行ってしまったので、ほとんど一緒に行けなかったのが残念だ。
ゴールデンウィークには、義理の母を乗せて短いドライブをした。最後にダンナの店があった東久留米に行き、蕎麦を食べて帰ってきた。VOXYは義母にとっても思い出深いクルマだ。ダンナは息子を連れて実家にVOXYでよく行っていたからだ。


いよいよクルマを手放す日が近づいてきた。家族四人で一度だけ行ったカフェにまた行きたいという息子の要望で、青梅までVOXYを走らせた。ところがその店に着いてから駐車場でタイヤがパンク寸前であることがわかった。カフェの警備員さんが指摘してくれた。おまけにカフェは閉店時刻をちょうど過ぎたところだった。仕方なくお土産だけ買い、痛い出費だったがフロントタイヤ2つを交換した。手放すまであと少し。それからはVOXYを使い倒すべく毎週末クルマで出掛けた。ダンナが好きだった熱帯魚店にも久しぶりに行ったし、息子の学校見学にもクルマで行った。側面は縁石に乗り上げた際にキズがつき、すでにボロボロだった。


手放す前の日、査定に行った。本当はマコちゃんに最後まで面倒を見てもらいたかったが、マコちゃんもいろいろありアドバイスだけもらっていた。比較している時間もなかったので、数社挙げてくれていた中で一番おすすめの近所のカー用品店に持って行った。想像はしていたが値は付かなかった。リサイクル料だけが戻ってきた。このカー用品店、昔ダンナと来たな。タイヤの匂いを嗅いで思い出した。


いよいよVOXYとお別れする日が来た。
カー用品店とは夕方6時の約束だったが、その前に用事があった。でも1時間ほどあれば車内に残っているものは何とか片付けられるはずだ。トランクに積んだままになっていたバイクブーツとキャンプ用のイスとテーブルのセットの他には、後部座席に多少ものが残っているくらいだろう。そうたかを括っていた。ところがこの後部座席に思いのほか沢山のものが詰まっていた。領収書や修理で使う工具や部品、汚れた仕事着、開封してない請求書まで…。なぜかふっと笑いが出た。まったく、しょうがないな。嬉しかったのは、なくなったと思っていた東京モーターショーで買ったキャップが出てきたことだ。ずっと探していたのだ。このキャップ、ダンナにすごく似合っていた。
時間が迫ってきた。いろいろな角度からVOXYの写真を撮り、息子に手伝ってもらって帰りに乗る自転車を積み込んで出発した。息子は手を頭のところに揃え敬礼した。私も敬礼を返した。
途中、さすがにいままでの思いが去来し涙が流れた。クルマに乗れなくなるわけじゃない。カーシェアリングもあるから、乗ろうと思えばいつでもクルマには乗れる。しかしこの車窓から見える景色はもう一生見れないだろう。そしてこんな風に乗る車も、もう一生ないだろう。涙を必死で堪えた。じきに店に着いてしまうから。


事務処理はいくつかの書類に記入して印を押すだけであっという間に終わってしまった。促されるまま外に止めてあるVOXYの前に向かう。「新しいクルマに乗り換えるんですか」と聞かれたので「いえ、もう手放すことにしたんです。ダンナが亡くなってしまって…」と答えた。担当者はあっという顔をしていたような気もするが、私は気にせずにVOXYの最後の勇姿を撮った。担当者は積んであった自転車を降ろしてくれた。まだ撮り足りないんじゃないか、もう少し写真を撮っておこうか、そうも思ったが、何だか立ち去れなくなる気がした。私は降ろしてくれた自転車に乗り、振り向かずに店をあとにした。