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「思考」と「移動」の関係

「榎田さんって、ゆっくり読書するようなお気に入りのカフェとかあるんですか?」と聞かれた。

そう言われてみると、ないかも、そんな場所。

というより、カフェとか喫茶店でゆっくり読書して過ごしたくなること自体がないのかもしれない。

割とそういうことに憧れてきたんだけど、実際に本を持ち込んでゆっくりしようにも、どうも落ち着かず、結局30分くらいで出てきてしまうことが多い。(急ぎの仕事で集中して何かやってるとか、誰かを待っているとか、目的があるケースは別)

なんというか、時間を持て余してしまうんだよね。
貧乏性だなぁ。

そういえば、一人でじっくりモノを考えたり、本を読んだりって、日常的にどうしているんだったっけ?と改めて考えてしまった。

家にいればやることが色々あるし、あれやこれやと家族に声はかけられるし、動物たちのご飯を用意したり、ニャアニャア鳴く外の猫にご飯をあげたり…と忙しく、何かをじっくりと考える暇は割とない。

というより、敢えてじっくりとモノを考える時間は作ってこなかったのかもしれない。

そういえば実際、椅子に座ってじっとしていること自体が苦手なことに気づく。(今更? 苦笑)

何かいいアイデアが浮かぶときは大体掃除をしているときか、歩いている時だ。

つまり、「ながら考え」しかできない。

「考える前に先に体が動いていますよね」と言われたこともあるが、
それは単に「考える→動く」と2回のステップに分けることができないからだ。

すごく集中して何かをやっていて、気がついたら座ったまま数時間経っていることも確かにあるけれど、大体通常の仕事で、1時間くらい椅子に座っていると、「ちょっとお茶でも…」と席を立ちたくなる。

あと、電話をかけているときにじっと座っていることができない。
大体うろうろと檻の中のライオン状態で動き回っている。
ひどいときはそれで6000歩くらい稼いだこともあった(笑)

これは多動症なんじゃないか?と疑ったこともあったけど、やっぱりそうなんだろう(笑)

***

でも、案外人って、昔から動きながら考えてきたんじゃないだろうか。
むしろじっと座って考え事をするようになったのは、比較的最近になってからなのかもしれない。
(私はじっと座っていると、九割がた寝てしまう苦笑)

実は「歩くこと」や「移動」と「思考」ってわりに近いところにあるのかもしれない。

狩猟採集をしていた頃から、人はかなりの距離を旅したという。出会いを求めて、交易を求めてという理由はもちろんだろうけれど、もっとベーシックに、身体的、本能的理由として、やたらとモノを考えたいという欲求に従った結果、移動せざるを得なかったと考えるのは飛躍だろうか。

人は二足歩行をすることによって他のサルとは違う進化をしてきた。大きな頭脳を支えるために、足の親指の足裏側の骨(第一蹠骨)が発達した。

「移動」には基本、「歩く」という行為が伴う。
それは単なる空間移動ではなく、第一蹠骨を鍛え、頭を明晰に働かせるための稽古であったかもしれない。

日常的な小さな移動だって、思考を深め、転換するツールとしてそれなりに機能していることを思えば、狩猟採集民は、何日も、何ヶ月もかけて移動したのだろうから、もっとドラスティックに思考の稽古ができたはずだ。

交流が盛んな時代には、文化も発展するらしい。

もしかしたら、初めは思考を深めるための「移動」の欲求が本能的に起こり、その結果、交流が盛んになり、文化文明の発展に繋がったのかもしれない。

何百キロも歩くのはもはや現代の私たちには難しいが、無性に移動したくなることはある。その移動欲を満たしてさえいれば、自然と思考が深まり、あるいは新たなものの見方ができるのかもしれない。

マスクなしの新年度も始まったことだし、今年こそ遠距離移動に挑戦してみたいものだ。








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