見出し画像

ダリ 帰ってこなかった戦場の詩人

爆音の響く塹壕で詩を読み続けた詩人ダリ。2024年1月、33歳のウクライナ青年はハルキウ戦線で最愛の猫とともに戦場で散った

はじめに

猫とともに眠るダリ

仕事であちこち移動するので、結構な数の有名人を生で見た。ローマの空港でまだスリムだった頃のディカプリオを見た。成田でまだ爽やかだった頃のキムタクも見た。ウクライナに来てからは、コネを使って、まだフサフサだった頃のスヴャトスラフ・ヴァカルチュークを至近距離で見た。

名高いイケメンを数々見たけど、ダリほど眼力の強い男に会ったことはなかった。今もまだない。眼力が強いというとギラギラして闘争的な男を想像しがちだが、ダリはそういうタイプでは全然なかった。優しくて柔らかい、少年のような眼差しをしていた。好きなものや楽しそうな物を見つけると、その眼差しがどんどん強くなって、それがこちらにまで移ってくるような、どこか幼気(いたいけ)な眼力だった。ダリは私たちのアイドルだった。

あの美しく蠱惑的なダリの眼が、もうこの世にはない。
今年の1月7日、ダリはハルキウの前線で、彼が最後の詩を捧げたレッドタビーといっしょに旅立った。
享年33歳。

戦争が終わってダリが帰ってきたら一緒に飲もうと思っていた友人たちは、嘘だと思った。ダリなら弾丸も避けていくだろうと何故か思っていた。
でも、ダリの死を伝えたのは、ダリによく似た話し方をする彼のお母さん、ナディアさんだった。ナディアさんがそんな冗談を言うわけがないことを、残念ながら、私たちは知っていた。

子どもと猫が大好きで、子どもにも猫にも好かれたダリ。
おしゃべりとケーキ作りが好きで、誰よりも上手にエクレアを作ったダリ。
爆音の響く塹壕で詩を読み続けたダリ。
男でも女でも、一度でも彼に会ったら必ずもう一度会いたくなる魅力を持っていたダリは、もうこの世にいない。

ダリの生涯

少年の頃のダリ

「ダリ」のコードネームで知られる「戦場の詩人」マクスィム・クルィツォウ(日本人に馴染みやすい表記でいうと、マクシム・クリフツォフ)は、1990年1月22日にリヴネで生まれた。

リヴネはウクライナの北西部、キエフとリヴィウの中間あたりにあり、西でリヴィウに接しつつ、北でベラルーシに接するという政治的に重要な位置にある。そんなリヴネで、ダリは新聞販売員の父親と学校司書の母親の息子として生をうける。

司書教諭として学校に勤める母ナディアさんの影響で、ダリは早くから創作活動に興味を示すようになる。絵を描いたり、写真を撮ったりするのも好きで、FacebookやInstagramにも数多くの写真を残している。全般に、表現することに強い関心を持つ一方で、学校時代の10年間、水泳にも打ち込んだ。

リヴネで中等教育を終えたダリは、キエフの国立技術デザイン大学に進学してデザインを専攻、2014年に卒業する。彼の大学生活最後の年となる2014年はウクライナの尊厳革命が起こった年で、ダリも当然のようにこれに参加する。

革命の気運のなかで社会に出た若いダリは、同年秋に志願兵として一年の契約で入隊、初めて兵士として前線に立つ。画家のダリと同じようなヒゲを蓄え、コードネーム「ダリ」としての一歩を踏み出した。

1年後、志願兵としての契約期間を終えて除隊したダリは、兵役についていた若い男女の多くがそうするように、自分の本質を活かした職務に従事する。兵役につくと死が見え、死が見えたときに人間は、死ぬまでに自分がやるべきことを見出すのかもしれない。

母ナディアさんの影響で子供の頃から読むことと書くことが大好きだったダリは、文筆力を活かして軍関係のリハビリセンターなどでコンテンツマネージャーやコピーライターとして働く。

また、子供好きのダリらしく、児童キャンプのボランティアとしても活躍した。しかし、2022年2月24日にロシアの侵攻が始まると、ダリは再び従軍する。そして、今度の従軍からは、帰って来ることはなかった。

「戦場の詩人」ダリが生まれる背景

兵士の顔と詩人の顔を持つダリ

ダリの生涯について話していたとき、日本の方からの質問で、「デザイン専攻の学生だったダリさんがどうして志願兵として入隊したのですか?」「コンテンツマネージャーとして働いていたダリさんがどうしてまた従軍したんですか?」と訊かれたことがある。

最初、私はこれらの質問をきいて、驚いた。一瞬、どう答えて良いか分からず、言葉に詰まったのを覚えている。私からすれば、それはまったく想定外の質問だった。召集兵ならともかく、志願兵に専攻が関係あるとは考えたこともなかったからだ。

ただ、私の発想は職種や業種に関わらず、友人や知人が従軍する国にいる者の発想だ。戦争が身近ではない日本人には、日本人風にいえば「文系」のダリがどうして戦争のたびに従軍したのか理解できなくて当然かもしれない。それを知るためには、彼の生きた時代を知る必要があるだろう。

ダリの生きた時代

1990年1月22日に生まれたダリの生涯は、独立ウクライナの歩んだ歴史とほぼ重なる。ダリが生まれた1990年は独立ウクライナが誕生する前年、ソ連が崩壊した年だった。ダリが1歳になる1991年にウクライナは誕生する。もちろん、生まれたばかりのダリはそんなことは何も知らず、ナディアさんの読み聞かせる絵本に熱中していた。

ウクライナの政治が大きく動き、世界中に独立ウクライナの存在が知られる契機となったオレンジ革命が起こったのは、2004年か12月から2005年1月にかけて。1月22日生まれのダリは、オレンジ革命の喚声のなかで15歳の誕生日を迎えたことになる。

幼い時期から読書と詩作になじみ、15歳というもっとも多感な時期に国家の最大の独立運動を目の当たりにしたダリが、戦場の詩人として国の運命に積極的に関わるようになるのは、自然なことだった。ダリが生まれたのはソビエト連邦ウクライナの最後の年だが、彼は独立ウクライナの子として育っていった。

詩人として、兵士として

後に戦場の詩人として名を残すことになったダリだが、詩人としてのダリを生み出すもっとも大きな要因は、何といっても母のナディアさんだろう。書物への愛、人を惹きつける言葉選び、独特のユーモアをたたえた表現、どれもナディアさんから譲りうけたものだった。

詩人としてのダリの揺籃が母のナディアさんだったとすれば、兵士としてのダリの揺籃は彼の生きた時代そのものといえる。なかでも、尊厳革命、ユーロマイダンといった2010年代の動乱を青年期に経験したことはダリの生き方、死に方と無縁ではなかっただろう。

尊厳革命

オレンジ革命から10年後、マイダンに再び革命が起こる。2014年2月の尊厳革命は、オレンジ革命と並ぶウクライナの政治的な激流で、その時代にその激流を目の当たりにしたものは否応なくその影響を受けた。尊厳革命やユーロマイダンの頃は、誰もが当たり前に国の将来に関わっていたし、関わろうとしていた。

2022年にロシアの侵略が始まってから、ウクライナ語を知らない人でも頻繁に耳にする「ウクライナに栄光を!Слава Україні!」「英雄たちに栄光を!Героям слава!」の掛け声が頻繁に言い交わされるようになったのも、尊厳革命の頃からだった。

当時は私のようなノンポリの外国人でも、真冬の寒さのなか松明(たいまつ)を掲げ、「ウクライナに栄光を!Слава Україні!」「英雄たちに栄光を!Героям слава!」「民族に栄光を! Слава нації !」「敵に死を!Смерть ворогам!」「ウクライナ!Україна!」「最高!Понад усе!」などと叫びながらリヴィウの市街を行進した。鼻水が凍るほど冷たかったけど、何も気にならなかった。

尊厳革命はオレンジ革命とは違い、担ぐべき主役のいない革命劇だった。オレンジ革命の頃の「主役」だったユシチェンコは既に表舞台から退場していたし、アイドル的な存在だったティモシェンコは、ヤヌコヴィッチとの政争のなかで失脚していた。尊厳革命のひとつの結果としてヤヌコヴィッチがロシアに逃亡すると、勾留されていたティモシェンコも釈放されたが、既に往時の輝きは完全に失せていた。

尊厳革命の頃には、世代を超え、地域を超えてウクライナを一つにするような力は誰も持っていなかった。ヤヌコヴィッチは追い落としたものの、誰もそこに明るい将来を見ていなかった。実際、革命の後、クリミア危機が起こり、最終的にはその危機が2022年のロシア侵攻につながっていく。

そうした不安定な革命だったからこそ、参加した者たちは、自分の役をまっとうしようとした。すでに詩作に携わっていたダリが、主役のいない革命劇のなかで国の歴史に関わっていこうとしたのはごく当然のことだったと私には思える。

ダリの作品

ダリのFaceBookより

従軍中、ダリは精力的に創作を発表していく。そうした創作の多くはFacebookやInstagramに投稿され、そのうちの幾つかはダリ本人が朗読している。

死の前年の2023年、ダリは作品集『銃眼からの詩*』を出版する。ダリが精魂込めたこの作品集は、ウクライナペンクラブの選ぶ2023年ベストブックの一冊に名を連ねる。

ダリの作品全体を通じて見られるのは、現代的な言葉選びと密やかなユーモア、そしてかすかなサーカズム。作品集を出版した際、ダリは「僕が古典になるのは、戦争で死んだときだけだ」と笑った。闘争の向こうに明るい将来の見えない尊厳革命の時代を生きたダリらしい言葉だった。

ダリがSNSに残した詩の一つに「人生を自分の手に取り戻す、約束する」と題された詩がある。ダリの残した詩のなかでももっとも閲覧の多いものの一つで、ダリらしい言葉が連ねられている。

「人生を自分の手に取り戻す、約束する」
キエフの某人気スポットの壁にマーカーでそう書かれている
コーヒーもケーキも、最先端のファッションやアクセ、音楽、それに最高の景色がみられるバルコニーがそこにはある
霧が摩天楼を静かに優しくつつみこむのを僕は見た
「愛なんて存在しない」
その店の別の階にはそう書かれている
海もまだない
大気も存在しない
夢もない
そして、僕もいない
でも、ここのコーヒーはいけるんだ
その下に誰かが書き足していた:
「おてんとさん、誰があんたにそう思い込ませたんだ?」
それが誰だか僕が教えてあげるよ:
沼地、そこから敵の死角に到達するのは簡単じゃない
すぐそこに地雷がある
首にしっかり巻きついている冬縄
散り散りに
野原に散らばっている人体の一部
無造作に、乱雑に
夢、悲鳴をあげずにはいられない夢
雨、状況が変わるまでまだ後数日間も待たなきゃいけないときの雨
そして太陽
空襲警報のせいで地下シェルターに隠れていた太陽
本当にね
おてんとさん、誰があんたにそう思い込ませたんだ?
短い休暇
数日かけての旅路
友人たちに会ったり
粘土細工をつくったり
2年ぶりにチーズケーキを焼いたら激ウマ
ツレたちといっしょに
冬猫が野ネズミをとっつかまえて抑え込んでいるのを見たり
呼吸(いき)ができる
向かいの道路を
痩せた大型犬を引っ張った女の子が横切って走っている
どこかにフルシチョウカ*の最上階がちらついている
バタフライの泳者のように
きらきらときらめく
そしてもう少し
僕もまた当たり前の町の一部になりたくなる
でっかい犬を散歩させたり
卵を炒めたり
高い棚のある感じの良い本屋でコーヒーを飲んだり
それは危険だ
とても危険だ
静かな生活なんて病みだ
履きつぶした靴カバーみたいな
そんな考えは捨てろ
ここから逃げろ
敵の死角へ
自分の沼へ
自分の地雷へ
僕は自分の人生を自分の手に取り戻す
僕は自分の人生を自分の手に取り戻すことができるのか?
約束するよ

*フルシチョウカ Хрущовка
フルシチョウカとは、1950年代後半から1980年代前半に建てられた、主に5階建ての団地風建築のこと。1953年から1964年までソ連の書記長だったミキータ・フルシチョウが率先してその建築を推進したことから、彼の名をとってフルシチョウカと呼ばれる。日常の会話では、階数や建築年代にかかわららず、エレベーターのないソ連風の団地を総称してフルシチョウカと呼ぶこともある。

「約束するよ」とダリは書いたが、ダリには珍しく、その約束は反故にされてしまった。

ダリの死とその後

マクスィム・ダリ・クリィウツォウ

2024年1月7日、ダリはハルキウを防御中に戦死する。ダリは1月5日にFacebookを、1月6日にInstagramを更新していたが、7日、ダリの母のナディアさんがダリが5日に更新したFacebookにコメントを付すとともに、自らのプロフィール画像を蝋燭(ロウソク)に変えることで息子の死を認めた*。

*ウクライナでは家族などの近親者が亡くなると、プロフィール画像を蝋燭(ロウソク)に変える。

1月11日、キエフの聖ミカエル大聖堂でダリの葬送の儀が営まれた。続いて、尊厳革命の舞台となった独立広場でも、ダリを慕う人々が彼に別れを告げた。そして、12日、ダリの遺体は故郷のリヴネに帰り葬られた。

死から10日後、ダリは敵軍の攻撃に対する勇敢行為によって功労従事章を贈られる。さらに22日、軍人としての功績から、勲三等功績賞(死後)を授与される。1月22日はダリの誕生日。生きていれば、ダリはその日34歳になるはずだったが、34歳のダリは叙勲の場にはいなかった。彼は母のナディアさんが暮らす故郷のリヴネで静かに眠っている。

一方、詩人としてのダリは永遠に私達と共にいる。生前ダリがSNSにアップした画像には、今でも毎日訪れる人々がいる。ダリの死から半年が過ぎた今も、ウクライナはもとより、ヨーロッパ各地でダリの作品と生涯を紹介するイベントが開かれている。これらのイベントのすべてをチェックして、新たなイベントに協力してくれているのが、ダリの母ナディアさんだ。

ダリはナディアさんの子としてウクライナに生まれ、独立ウクライナの子として育ち、ウクライナを守って、死んでいった。

おわりに

ダリとともに亡くなった猫

ウクライナでは、訃報に接したとき、「Вічна пам’ять」という言葉をよく用いる。日本語風によむと「ヴィーチナ・パーミャチ」。直訳すると、「永遠の記憶」で、亡くなった方に対し、また故人を亡くされたご家族に対して、「永遠に忘れません」と告げることで、死者への最大限の敬意と遺族への同情を伝える。

戦いで斃れた人の場合、「永遠の記憶」と伝えるのは、敵に対する復讐でもある。お前たちが彼の存在を消そうとしても、彼の肉体を消したつもりでも、記憶は決して死なないのだという、敵への宣言である。

ヴィーチナ・パーミャチ、ダリ、ウクライナが存在する限り、誰も貴方のことを忘れない。スラーヴァ・ウクライィー二!スラーヴァ・ダリ!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?