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真剣に生きる、とは?

どうも、Tomです。
今日はちょっと育児記事はお休みして別のことを。
というのもですね、私の祖父から電話をもらいまして。実に深く思うところがありましたので、これは記録しておこうと思った次第であります。

この祖父、大変に元気な人で、今はいわゆるサ高住に入っているのですが、パソコンを使いこなしてはお取り寄せをしてみんなに振る舞ったり、親族へ旅行やご飯回を開いたり、サ高住の経営に口出ししてみたり(意見書とか作ってる)、花や木を育ててみたりと、とても楽しんでる人なんですね。(職員さんには頭が下がります)
私も帰省したときには会いに行くのですが、サ高住に移り、祖母が先に亡くなり、変わっていく環境の中でどんどん楽しみを見つけて行くと力強さにずいぶん励まされていたんです。

今はなかなか会いに行けないので、時々手紙を出すのですが、敬老の日があったので、やはり手紙を出したのです。
その後祖父本人から電話がかかってきたので出てみると、どうやらだんだん弱ってきた、と。食べるのも苦労しているので、今返事の代わりに電話をしてるけれど、電話や訪問、手紙などせずそっとしといてほしいこと、好きなように生きるのが一番だからそうしてほしいことを言われました。

電話を切ったあと、私、けっこうショックを受けました。それは、大事な人がもう長くないかもしれないという悲しさ。私は祖母を亡くしたときには、海外にいたため、両親が気を遣ってくれて一時帰国の時に知った、ということがあったので、タイムリーに近しい人が旅立っていくという経験が30代なかばまで生きていて、経験したことがなかったんです。
もう1つは祖父が亡くなる想像をしただけでこんなに悲しくてさみしいのに、これが自分の両親だったら果たして乗り越えられるのかとたまらない気持ちになったのです。

現在95歳の祖父に対して父親が63歳なので、35歳の私がまだ準備できてなくても仕方ないところはあってもいいかもしれませんが、今の時点ではとてもじゃないけど乗り越えられる気がしなかったのです。

でも、
ここから、
じゃあ、どうしよう?と。

この悲しさやさみしさは、確かに辛いものだから反射的になくしてしまいたいような気持ちになるけれど、実はとてもみずみずしい、美しいものでもあると思いました。

何かを失う(失いそう)なことを純粋に悲しめること、それは私がその何かを愛していたということ。
今回は祖父のことでしたが、私は会えるときには会いに行き、手紙を出したりと、自分の中にある愛情を伝えられたことはとても素晴らしいことだった。
何より祖父は、もしこのまま亡くなったとしても元気に回復したとしても、自分を理由に悲しみに浸っていてほしくはないはずです。
だから私はここから何を学べるか?どうしていきたいか?
それをキャッチして今後を生きるうえでの舵にしていくべきだと強く思ったんです。

言いたいこと、やりたいことを我慢してる場合じゃない。
愛されるのを待って、愛さないなんてケチってる場合じゃない。
笑ってしまえば、イヤな状況すら変わっていく。
私たちはもっと楽しんで命を燃やしたほうがいい。

私はとにかく損をしたくなくて、リターンがあってから差し出すことや、お金を始めとして自分の労力だってとにかく最小にして多くを得ることばかり拘っていたことが急につまらなく思えた瞬間でした。
そこからちょこちょこムスメとお散歩に出るとコーヒーを買って飲んでみたり(以前ならこんなムダは許せなかった)、値段を気にしてやめたものこそ買ってみたりし始めました。
宝くじとか買ってみたのですが、こんなん以前なら絶対買わなかったしね(笑)。

とにかくもっと「真剣に人生を楽しんで味わう」ことに全力を注ぐことが、祖父も自分も喜ぶ結果になる。そう決めたんです。
生きること、それは真剣楽しむことであり、人生の問題さえも味わうことなのかもしれないですね。

**みんなのフォトギャラリーより写真を使わせていただいております。投稿者様ありがとうございます**

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