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N.Y.の学生時代 

18歳の時にN.Y.パーソンズの姉妹校(KIDI)が金沢にあり一年金沢で基礎科を受けてからN.Y.パーソンズのイラストレーション科に編入した。丁度今年初めてN.Y.に行ってから30年経つが昔の事を思い出すのは忘れていた記憶も蘇ってきて自分の為にも整理しておきたくなってきた。今のマンハッタンがどうなっているか分からないが1993年に行った頃はストリートアートや音楽が街に溢れていて19歳の僕には物凄く良い刺激でスポンジの様にそのバイブスを吸収していた。

最初編入した頃は英語も良く分からなかったので作品で伝わる様な物をガムシャラに課題を作っていた。高校の時に2年程日本の美大の予備校に行っていたので石膏デッサンや平面構成の技術はあったので他のアメリカ人のクラスメートに比べて緻密な技術はあった様に思うし、それなりにクラスの成績も良かった。2年目ぐらいになると海外ではアジア人はアートの技術がある様な事も客観的に見えてきてただ努力して描いたような物も飽きてきて、センスみたいな物に憧れるようになっていった。その当時僕が憧れていたクリエィター達がデザイン、イラストやアートの狭間で活動している様な人達に影響を受けていたのでとにかく色々なビジュアル表現を試していた。逆に一つのスタイルで描き続ける職業的なイラストレーションにはあまり興味が無かった。

学校では最初の頃は予備校で褒められた記憶が殆ど無かったので先生やクラスメイトに褒められた事が凄く嬉しかったが、先生は「良いねその調子で続けなよ」としか言われなかったので大学3年頃になるとその先何をやって良いのか分からなくて大学から学ぶ事も無い様な気がして辞めたい気分になっていた。そんな時に出会ったのがドローイングのクラスを教えていたパサラクア先生だった。彼はディズニーでアニメーションや映画のオープニングなどをやってきた人で写真家でもあった。彼は絵を描く喜びと自分で学んでいく方法を教えてくれた。ドローイングのクラスでは主にヌードドローイングだったが15分ぐらいから始めて突然5秒で描けとか10秒で描けと言って時には左手で書かせたり、両手で描いたり、紙を見ないで描いたりもした。彼の口癖は「君たちは物を見てないので物をしっかり見ろ」とゆう事を言っていた。描き終わった後のドローイング自体は何を描いているか分からない物もあったが、線に勢いがあってエネルギーを感じた。今迄自分が執着していた様な物が簡単に外れた様な気がして清々しい気持ちだった事を覚えている。ドローイングの時には自分が憧れるアーティストの本を持ってこいと言われて自分で学ぶ習慣がついたのも良かった。彼がピカソを凄い進めてたのでピカソには一時期すごく影響を受けた。

パサラクア先生

その時期に友達がNewSchoolでサックスを勉強していてその友達の影響でJazzにガッツリとハマっていた。単純にスーツを着た黒人の音楽家がカッコ良くて日本と比べてスーツを着た大人がカッコいい事が強烈なカルチャーショックだった事を覚えている。Jazz Barでスケッチブックを持っていってミュージシャンを描いたりしたのは物凄く気持ち良かった。Jazzの音をビジュアル化したいと思って影響を受けたのがアブストラクト・エクスプレッショニズムだった。アブストラクト・エクスプレッショニズムは元々アジアの習字から影響を受けたアートなので日本人の僕には親近感が湧いたのかもしれない。Robert Motherwell、Willem De Kooningは日本で見た事が無かったアートでエネルギー見たいな物にただただ圧倒されて作品の前をずっと眺めていたのを覚えている。ただ見ているだけで色々な解釈が出来るのが好きだった。学校を卒業しても一時期彼らの様なスタイルで描いていたことがあったが自分でも何を表現しているのか分からなくなって抽象表現は辞めてしまった。現在やっているコラージュにもアブストラクト・エクスプレッショニズムの影響を受けているのは自分でも感じる。自然のモチーフを使っていながら抽象物を扱っているような感覚がある。アートに関しては作品の中にあるエネルギーを大事にしているのかもしれない。


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