ハギーワギーの要約!新年一発目の要約本に2013年から発売され、シリーズ累計870万部の大ヒットを記録している「嫌われる勇気」について記事を書かせていただきたいと思います。
自己啓発の源流「アドラー」の教え
フロイト、ユングと並び「心理学の三代巨頭」と称され、世界的名著「人を動かす」の著者・D .カーネギーなど自己啓発のメンターたちに多大な影響を与えたアルフレッド・アドラーの思想が凝縮された1冊です。
悩みを消し去り、幸福に生きるための具体的な「処方箋」となってくれる本です。
人は変われる、世界はシンプルである誰もが幸福になれる。
「世界」が複雑なのではなく、ひとえに「あなた」が世界を複雑なものとしている。
人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自ら意味づけを施した主観的な世界に住んでいます。
あなたが見ている世界は、私が見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう。
問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうあるか?
人は変われます。幸福になることもできます。あなたにその”勇気”があるか、です。
1.トラウマを否定せよ
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。
過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。
「原因論」と「目的論」の違いとは?
いわゆるトラウマの議論などは、原因論の典型です。
トラウマに苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。
自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定する。何かしらの「目的」に沿って生きる。それが「目的論」
トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、形を変えた決定論であり、ニヒリズムの入り口なのです。
我々の自由意志を否定し、人間を機械であるかのようにみなしているのは、フロイト的な原因論なのだと。
「人は変われる」を前提に考える
変わることの第一歩は、知ることにあります。
もしも幸せを実感できずにいるのであれば、「このまま」でいいはずがないということ。
「大切なのは何が与えらえているかではなく、与えられたものをどう使うかにある」
もしあなたが、他の誰かになりたがっているとすれば、「何が与えられているか」にばかり注目しているはずです。
そうではなく、「与えられたものをどう使うか」に注目するのです。
あなたの不幸はあなた自身が選んだもの
「誰一人として悪を欲する人はいない」ソクラテスのパラドクスとして知られる命題があります。
行為としての悪は、山のように存在します。しかし、全ての犯罪者には犯行に手を染めるだけの「しかるべき理由」があります。
それは言葉を変えるなら「善」の遂行なのです。
ギリシャ語で「善」という言葉には、道徳的な意味合いはありません。
ただ「タメになる」という意味になります。
一方、「悪」という言葉は「タメにならない」という意味があります。
不幸であることを選んだのであれば、不幸であることが自身の「善」だと判断した、ということなのです。
人は常に「変わらない」という決心をしている
あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心をしているから。
新しいライフスタイルを選んでしまったら、新しい自分に何が起きるかもわからないし、目に前の出来事にどう対処すればいいかもわからなくなる。
未来が見通しづらくなるし、不安だらけの生を送る事になる。
つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることの方が楽であり、安心だと思ってしまう生き物である。
アドラー心理学は、”勇気”の心理学です。
変わりたくても変われない「幸せになる勇気」が足りていないのです。
2.すべての悩みは対人関係
受験生が「合格すれば人生バラ色になる」と考える。
会社員が「転職すればすべてうまくいく」と考える。
しかし、それらの願いがかなったにもかかわらず、事態がなにひとつ変わらないことは大いにあります。
なぜあなたは自分が嫌いなのか?
なぜ短所ばかりを見つめ、自分を好きにならないでおこうとしているのか?
それは他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に怖れているからです。
誰かから小馬鹿にされ、拒絶され、心に深い傷を負うことを怖れている。
そんな事態に巻き込まれるくらいなら、最初から誰とも関わりを持たない方がましだと思っている。
それが「目的」となり「他者との関係のなかで傷つかないこと」を選んでいるのです。
対人関係のなかで、傷つかないことなど、基本的にありえません。
アドラーは、すべての悩みは「対人関係の悩み」であると断言しています。
対人関係のなかでも「劣等感」という感覚があります。
われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」からきている感情。もっと言えば勝手な思い込みです。
どうして人は劣等感を抱くのでしょうか?
それは普遍的な人間の欲求として、「優越性の追求」という心のはたらきからきています。
「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」
人は誰しも、優越性の追求という「向上したいと思う状況」にいる。
なんらかの理想や目標を掲げ、そこに向かって前進している。
しかし理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているような感覚を抱く。
劣等感も、使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となります。
一方、劣等感の先に劣等コンプレックスというものがあります。
劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のことを指します。
「私は学歴が低いから、成功できない」「私は器量が悪いから、結婚できない」という考えは、もはや劣等感の範疇に収まりません。劣等コンプレックスです。
本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
つまり、ライフスタイルや何かを変えるような勇気は持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、今のままでいたほうが楽なのです。
優越性の追求について
健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。
対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。
競争の中には、権力争いがあります。
もし、面罵されることがあればその人の隠しもつ「目的」を考えるのです。
相手の言動によって腹が立った時は、相手が「権力争い」を挑んできていると考えてください。
相手は、戦って勝ちたいのです。
勝って自らの力を証明したいのです。
権力争いを挑んでくる相手は、ただあなたを非難し、挑発し、権力争いを通じて、気に食わないあなたを屈服させたいのです。
あなたが怒って仕舞えば、相手の思惑通り、関係は権力争いに突入します。いかなる挑発にも乗ってはいけません。
もしあなたが言い争いを制した場合は、争いに敗れ相手は次の段階に突入します。
「復讐」の段階です。
相手は別の場所、別の形で、なにかしらの復讐を画策し、報復行為にでることでしょう。
権力争いを挑まれた時は、絶対に乗ってはならないのです。
人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。
これは完全なる権力争いでしょう。
あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。
多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。
誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。
直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか
アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、かなりはっきりとした目標を掲げています。
行動面の目標が次の2つ
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
そして、この行動を支える真理の目標として、次の2つ。
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識
これらの目標は、アドラーのいう「人生のタスク」と向き合うことで達成できるわけです。
ひとりひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるえない対人関係。それが人生のタスクです。
世界はいつでも危険なところにもなりうるし、あらゆる他者を「敵」と見なすことも可能です。
アドラーはさまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態をさして「人生の嘘」と呼びました。
われわれ人間は、原因論的なトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではありません。目的論の立場に立って、自らの人生を、自らのライフスタイルを自分の手で選ぶのです。
われわれには、その力があります。
3.他者の課題を切り捨てる
アドラー心理学の大前提として、アドラー心理学では他者からの承認を求めることを否定します。
これには、毀誉褒貶さまざまな意見が飛び交うかもしれません。
我々は、普段考え方としての根底に、承認欲求こそ我々人間を突き動かす普遍的な欲求だと思う方も多くいると思います。
「あの人」の期待を満たすタメに生きてはいけない
我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
他社の期待など、満たす必要はないのです。
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きてるるのではない」のです。
本書の中では、「他者の期待を満たすな?もっと自分本位に生きろ?承認欲求こそが、人と他者が交わり、社会を形成していかんとする最大の動機ではないか」とアドラー心理を受け入れることに青年は難色を示している。
確かに、承認欲求を全て否定し行動を起こしたり、物事を成し遂げるのは利に反する部分があるのかもしれないと感じました。
他のメディアや要約で本書が取り上げられるときもこの承認欲求の否定に関しては、賛否両論別れる議論にはなっている気がします。
「課題の分離」
例えば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えます。
子供が勉強しなければならないのであれば、それは「子供の課題」であって親の課題ではありません。
我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
他者の課題には踏み込まない。
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。
課題の分離ができるだけで、対人関係は激変します。
誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えるだけです。
もしも子供が「勉強をしない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末は子供に直接影響します。
無論、精一杯の援助はします。しかし、その先にまでは踏み込まない。
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」
アドラー心理学におけるカウンセリング、また他者への援助全般も、そういうスタンスで考えています。
自分を変えることができるのは、自分しかいない。
他者の課題を切り捨てよ
自らの生について、自分にできることは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」
その選択について他者がどう評価をするのか?どう感じるのか?
それは他者の課題であって、自分ではどうにもできない話になります。
相手が自分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、それは相手の課題であって、自分の課題ではない。
「あの上司がいるから、仕事ができない」と考える。
これは完全な原因論です。
「仕事をしたくないから、嫌な上司を作り出す」と考える。
あるいは「できない自分を認めたくないから、嫌な上司を作り出す」こちらは目的論的な発想になります。
つまり、上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。
理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題である。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。
自らの人生に嘘つくことなく、自らの課題に立ち向かうこと それが課題の分離。
本当の自由とは何か?
「自由とは、他者から嫌われることである」
あなたが誰かに嫌われているということ。
それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしです。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。
つまり、自由になれない。
4.世界の中心はどこにあるか
課題の分離は、対人関係の出発点です。
対人関係のゴールは「共同体感覚」
他者を仲間だと見做し、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。
アドラーは自ら述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、時間軸においては過去から未来までも含まれる。
さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。
過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通り「すべて」が共同体なのだと提唱しています。
共同体感覚では、自己への執着(self interest)を、他者への関心(social interest)に切り替えていきます。
「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方は「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルになるのです。
あなたは世界の中心ではない
「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。
叱ってもいけない褒めてもいけない
アドラー心理学では、あらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。
劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識です。
対人関係を縦で捉え、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。
横の関係に基づくと、介入ではなく援助をすることになります。アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。
仕事を手伝ってくれたパートナーに「ありがとう」と、感謝の言葉を伝える。あるいは「嬉しい」と素直な喜びを伝える。「助かったよ」とお礼の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチです。
いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。
人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。
「人は、自分には価値があると思えた時にだけ、勇気を持てる」
3.「いま、ここ」を真剣に生きる
自己肯定ではなく自己受容
自己肯定とは、出来もしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。
一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。
例えば、60点の自分だった時に、そのまま60点として受け入れた上で「100点に近づけるためにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容になります。
人はいま、この瞬間から幸せになることができる
「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2人は、互いに全てを受け入れられる親友になれる。残りの7人は、どちらでもない人だ」というユダヤ教の教えがあります。
あなたを嫌う一人に注目するのか。
それともあなたのことが大好きな2人にフォーカスをあてるのか。
あるいは、その他大勢である7人に注目するのか。人生の調和を書いた人は、嫌いな一人だけを見て「世界」を判断してしまいます。
どうでもいいはずのごく一部だけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。
「自分がどうやって幸福になるのか?」
人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。
「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれるのだと。
他者貢献とは、目に見える貢献出なくとも構わないのです。
「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献間」を持てれば、それでいいのです。
人生最大の嘘
人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。
過去を見て、未来を見て、人生全体にうっすらぼんやりとした光を当てて、何か見えたつもりになることです。
無意味な人生に「意味」を与えよ
人生の意味とは何か?人は何のために生きるのか?
アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」という答えでした。
「一般的な人生の意味はない」と語った後、「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と続けています。
世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、
わたしが変われば、世界が変わる。
わたし以外の誰も世界を変えてくれない・・・・・・
最後にアドラーの言葉を届けよう「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」
まとめ
前半は「目的論」「原因論」の考え方を理解し、原因論すなわちトラウマに囚われることなく目的を達成するために現在起きている事象を理解することが書かれていました。
さらに全ての悩みは対人関係から起源していると、断言し、誰もが追い求める「優越性の追求」に対してどう向き合うのかを解いてくれました。
後半では、より具体性的な悩みの「処方箋」となる対人関係との向き合い方などが示されており正に人生の価値観をまるっきり変えてくれる内容になっています。
承認欲求を完全に捨てて、生活するのは難しいのかなと諦めを得ている部分もありますが、過度な承認欲求に関しては否定するべきだと意識するようにしています。
普段からも仕事をこなしていると承認をなかなか得られないことからイライラしたり悩んでしまったりしてしまいます。
多くの人もそんな悩みを抱えながら、世界の中心に自分が君臨していると考えているのかなと思っています 笑
私はふと気づけば世界の中心に自分が君臨しているかのような思考に陥りやすく、対人関係の悩みは多く抱える方だと俯瞰しています。
嫌われることが自由なんだ、他者貢献の意識を持って行動する、他人の評価は意識しない、課題を分離する、自己受容を主体として自己を評価する。
そういった本書の教えを得て日常に反映させることができれば、対人関係の悩みも解消し、より社会に貢献できる自分の人生に置いて「意味」を見出せる人生を過ごせるのではないかと思いました。
終わり
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