左翼の「生命主義」批判と功利主義
一般にプロライフ(生命尊重)が保守・右翼で、プロチョイス(選択尊重)がリベラル・左翼である、とされる。
しかしながら、多くの人は「女性の選択を尊重する」ことと「生命尊重派を攻撃する」こととがどうして結びつくのか、理解できないはずだ。少なくとも、私はそうであった。
「プロチョイス」であるから「プロライフ」を攻撃する、その立場からは女性であっても「生命尊重」の発言をしたものは容赦なく攻撃されることとなる。
以前、一般に「穏健リベラル」とされるハフポスト紙がマザー・テレサを攻撃していたことを紹介したと思うが、カトリックの修道女が生命尊重の観点から中絶に否定的なことを言うのはいわば当然のことであるのに、それを殊更に問題視する理由が私には理解できなかった。少なくとも、マザー・テレサは政治家ではなく宗教家であり、それもカトリック教会というしがらみの中で発言している訳で、既に故人であるマザー・テレサを「生命尊重派(プロライフ)であるから」と言う理由で攻撃する左翼勢力に異常性を感じたのである。
実は、私はハフポスト紙のマザー・テレサバッシング記事を読む以前から左翼勢力の、主にフェミニズムの立場に立つ人間の論文を読むようにしていた。そこから左翼勢力がどうして生命尊重派を執拗に攻撃するのか、の本当の動機がなんであるかを調べられると思ったから。
そして、そうした論文を読んでいる中で、私はある重要なことに気付いた。
それは、我々保守派が見ると「肯定的」なイメージを抱くであろう言葉を、左翼の学者はむしろ否定的に使っている、ということである。
その言葉こそが生命主義である。
今、改めて少々検索しただけでも、フェミニズムの立場から「生命主義」を否定的に扱った論文は次の通りヒットした。
猪瀬優理(2019年)「新宗教とジェンダー」『宗教学研究』
薄井篤子(1998年)「宗教における生命主義と母性 : 生長の家における女性」『宗教と社会』
溝口明代(1994年)「「男性」の思想と社会の形成」『女性学』
土屋敦(2004年)「日本社会における「胎児をめぐる生命主義」の源流--1960年代優生保護法論争をめぐって」『ソシオロゴス』
中野優子(1997年)「仏教の生命倫理観と女性の権利」『印度仏教学研究』
これらの論文から判るのは、生命主義と言うのは専ら宗教的な思想であって非科学的であり、しかも生命主義を弘めている人は専ら女性差別を目的としているという陰謀論的な認識を、いわゆる左翼勢力が持っている、ということである。
それでは、そこまで左翼勢力が蛇蝎の如く毛嫌いする生命主義とは何なのか、と言うと、上記5論文の内、薄井論文において明確な定義が定められている。
学術論文の文体であるためややわかりにくい方もいるかもしれないが、多くの保守派の方は率直にこの定義を聞いて「え?それの何が問題なの?」と思うのではないだろうか?
「自分の意識は 〈生命〉の現れである」という考えをどれだけの人が常に「意識」しているかはともかく、そのような主張に違和感を抱く人はいないはずである。むしろ保守派の間では「無意識」に「大前提」とされていることであろう。
戦後右翼にも影響を与えた戦前の憲法学者の筧克彦は「広義の人格とは生命の表現をしている全てのものである」と言う意味の主張をしていたが、保守派にとって生命主義とは憲法解釈の大前提となるものですらあった。
逆に多くの保守派にとっては、このような「当たり前」の認識を左翼が「生命主義」と名付けて攻撃している、ということすら俄かに信じ難いものであると思われる。事実、保守派の活動家の中では「生命主義」と言う言葉すら知らない方も少なくない。当たり前の大前提に名前を付ける必要は無いのであるから、当然であろう。
左翼にとっては「批判の対象」であっても保守派にとっては「大前提」なのだから、左右で議論がかみ合わないのは当然である。むしろ、左翼が忌み嫌う「生命主義」を保守派が大前提としている事実にこそ、左右の根本的・本質的な違いがあると言える。
つまり、保守派や右翼にとってはアプリオリに正しい言葉である「生命尊重」が、左翼にとっては必ずしもそうでは無い、ということであり、それこそが右派と左派の最大の違いであると言えよう。
事実、以前私がプロチョイスの人間に対して「どんなに本人が死にたくても無理矢理自殺を止めるべき」ではないか?と問いかけると、次のようなリプライが来たことがある。
これらは偶々拾えたリプライの一部であって、中には「無理矢理自殺を止めて、その人のその後の人生に責任を持てるのか!」と言った反論が来たこともある。
このような左翼の主張は功利主義という考えを前提にしている。
功利主義とは「生命軽視」そのものを悪とはせず、あくまでも「苦痛を与えることが悪」とする考えである。
プロチョイスが神聖視するロー対ウェイド判決も功利主義の観点から後期中絶への規制は合憲とする一方で、初期中絶禁止は違憲とした。理由は「妊娠初期の胎児は苦痛を感じないが、後期だと感じるから」という、功利主義の極致ともいえる主張である。
このような主張を堕胎以外の問題にも徹底されたのが、日本のプロチョイスの初期の政治家にして医者である、太田典礼(日本社会党所属)である。彼は『優生保護法』成立に尽力して堕胎の実質自由化を推進した他、「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。」と述べて、難病等で苦しむ人はむしろ積極的に自殺するべきであるとまで主張した。それが今の安楽死を巡る議論に繋がっている。
堕胎に議論を限定しても功利主義の立場から「子供を産む方が問題である」「育てられないなら産むな」と主張するプロチョイスは少なくない。少しTwitterで拾うだけでもいくつか出てくる。
あまりにも数が多すぎるのでこのぐらいにしておくが、最後の「産まれてくる方がかわいそう」というツイートは、まさに功利主義の発想である。
だが、そもそも何が幸福で何が不幸か、何が利益で何が不利益か、は人にとって定義が違うのであるから、功利主義とは一見何かを語っている思想に見えて、実は何も語っていない思想なのである。
功利主義で唯一、見るべき価値のある思想は反出生主義(アンチナタリズム)である。
この思想は「何が不幸か」「何が不利益か」については、明確に示している。それは「人生は基本的に不幸で、そのような人生を歩むこと自体が不利益である」という、身も蓋もない認識である。
どこかの中二病患者が言っていそうなことだが、生きることを苦痛とすること自体は、お釈迦様も言っていたように仏教の根本的な考えではある。だが、反出生主義は「生老病死」から逃れようと解脱をする思想では、無い。
むしろ「生きることは苦痛である」と言う事実から逃れることを諦め、そして苦痛にまみれたこの世に子供を産んではならないという結論に達したのが、反出生主義である。
生命主義とは正反対の立場であるが、功利主義を徹底するとこの反出生主義に落ち着かざるを得ない。逆に言うと、反出生主義に至らない功利主義と言うのは、根本的には何が「利」であるのかを明確にせずに自分の主観で物事を語っている思想に過ぎない。
但し、仮に反出生主義の立場に立っても、今生きている人間をどうやって幸せにするのか、という建設的な提案は出てこない。それは功利主義全般に言えることで、何をもって幸福にするのか、ということになると千差万別の議論が出てくる。しかし、このことは却って個人の選択を重要視する広義のリベラリズム(自由主義)と相性が深いと言えるだろう。新自由主義者にもプロチョイスが少なくないのは、新自由主義者は保守主義者とは違って生命主義ではなく功利主義を根本にしているからであると思われる。
(左翼の代表格であるカール・マルクスは功利主義批判こそ行っているが、功利主義そのものを否定したかは議論がある。マルクスが功利主義を全否定していたと言う見解は私の高校の大先輩でもある三木清が唱えたが、三木清の思想は戦後左翼の思想とは異質のものであって、むしろ少なくとも日本の戦後左翼は概ね功利主義的な立場に立っていたからこそ、社会主義と生命尊重の両立を目指したチャウシェスクを西側諸国と一緒になって攻撃し、また自由主義の一派であるリベラリズムに合流し得たとさえ、言える。)
今の日本では自民党の新自由主義化と相俟って「尊厳死」と言う名の安楽死が超党派で肯定的に議論されている有様であり、さらにアメリカでのロー対ウェイド判決見直しの動きへの反発もあり、左翼勢力による功利主義の視点からの「生命主義批判」は今後も強まると考えられる。
保守派は今一度、生命主義の立場を明確にして左翼との根本的・本質的な違いを明らかにするべきであろう。