中々解けない「景初四年鏡」の謎
古田史学の会の古賀達也代表の「洛中洛外日記」において、「景初四年鏡」を巡る私の問題提起が取り上げられていました。
この問題は、所謂「邪馬台国」(邪馬壱国)論争において、とても重要ですので、基礎知識の無い方でも理解しやすいように説明させていただきます。
「景初四年鏡」とは何か?
「景初四年鏡」とは、京都府福知山市広峯の古墳から出土した「三角縁神獣鏡」の一つです。
「三角縁神獣鏡」とは、一言で言うと昔の鏡なのですが、古墳からしか出土していないという特徴があります。
三角縁神獣鏡に限らず、当時の鏡には文章(銘文)が記されているものが少なくありません。こうした銘文に年代が記されていると、その鏡がいつ作成されたのか、が判ります。
さて、三角縁神獣鏡には「景初三年」(西暦239年)や「正始元年」(西暦240年)と記された鏡はありましたが、実はこれらの鏡は銘文が不鮮明で「本当に景初三年なのか?」「本当に正始元年なのか?」と言ったツッコミが行われていました。
ところが、そんな中、ハッキリと年代の記された鏡が発見されたのです!それが「景初四年鏡」でした。
その鏡には、次のように記されていました。
「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之母子宜孫寿如金石兮」
漢文の解釈、特に金石文の解釈は意見が別れるのは常ですが、少なくともこの前半部分は
「景初四年五月丙午の日に陳(人の姓)がこの鏡を作った」
と、解釈できます。と言うよりも、それ以外の解釈をしている人を見たことがありません。
と言う訳で、この鏡は「景初四年に作成された鏡」ということになります。これにて一件落着・・・とは、ならないのです。
三角縁神獣鏡の制作年代を巡る論争
さて、三角縁神獣鏡の作成年代は長い間、論争の対象でした。
簡単に言うと「三世紀製作説」と「四世紀製作説」の対立です。西暦三世紀だといわゆる「邪馬台国」(邪馬壱国)の時代になるため、この議論はかなり過熱化していました。
「三世紀製作説」論者は「景初三年」(西暦239年)や「正始元年」(西暦240年)といった、三世紀前半の年号の記された鏡の存在を論拠にしていました。
一方、「四世紀製作説」論者は主に次の三点の主張をしていました。
・西暦四世紀以降に作成された古墳から出土している。
・神獣を鏡に描くのは西晋(三世紀後半~四世紀初頭)以降に多い。
・「景初三年」や「正始元年」の文字が不鮮明である。
ただ、古墳の造営問題は諸説ありますし、神獣を鏡に描くことは時代によって確かに流行はあるものの、魏の時代に全くなかったとは断言できません。
そこで議論が平行線になる中、今度は鮮明に「景初四年」と記された鏡が見つかった訳で、一気に三世紀製作説が有利になったのです。
が、そこで新たな問題が生まれました。
「景初四年」と言う年号など存在しない!
西暦239年は「景初三年」です。そして、実は西暦240年の元旦に「正始」へと改元されているのです。
つまり、「景初四年」であった日は一日も存在しないのです。
元旦に改元したのは一年の途中で改元することによって起きる混乱を防ぐためです。これを「喩年改元」と言い、日本でもしばしば行われていましたが、今の政府から失われた先人の知恵です。
当然、改元は事前に告知されています。況してや、5月にもなって「景初四年」と書く、等と言うことはあり得ないのです。
このことをどう説明するのか。これについては、邪馬台国大和説論者と邪馬台国(邪馬壱国)九州説論者とで、大きく理解が異なります。
邪馬台国邪馬台国説論者の白崎昭一郎氏、八木荘司氏、車崎正彦氏らは「中国の制作者の誤記」との立場です。
一方、邪馬壱国九州説論者の古田武彦先生は「倭人が銅鏡を制作した」と言う立場でした。中国での改元を日本列島の人が知らなくても当たり前、と言うことです。
いずれも、「三角縁神獣鏡三世紀製作説」であることは共通していました。
この理屈は簡単です。後代の人間がわざわざ存在しない年号の鏡を作る動機はないからです。
三角縁神獣鏡が三世紀なら古墳時代も三世紀?
さて、上記で「三世紀製作説」論者として紹介した古田武彦先生は、元々は「四世紀製作説」論者でした。
その最大の理由は「三角縁神獣鏡は古墳からしか出土していない!」というものでした。
当時は古墳時代の開始年代は西暦四世紀説が有力だったので、西暦四世紀の古墳から出土する三角縁神獣鏡も当然、西暦四世紀の鏡となります。
が、ハッキリと「景初四年」と記された鏡の登場で、古田先生を始め多くの論者が「三角縁神獣鏡三世紀製作説」へと転向してしまいました。(安本美典氏らは今でも「四世紀製作説」のようですが。)
そこで有力になったのが「古墳時代は西暦三世紀から始まったのでは?」と言う論者です。
特に今でもマスコミを賑わしている「箸墓古墳は卑弥呼の墓」論者は、まさにそうした主張の典型と言えるでしょう。
※なお、仮に箸墓古墳が西暦三世紀の造営だとしても卑弥呼の墓と言うことにはなりません。当たり前の話ですが、同年代の別人の墓だと言う可能性も充分にあります。そもそも『日本書紀』には箸墓は倭迹迹日百襲姫の墓だと明記されているのであって、箸墓古墳が卑弥呼の墓だと言うのであれば、まず、この『日本書紀』の記述が間違いだと証明しなければなりません。※
古墳時代開始が四世紀なのは動かしがたい模様
実は、私も昨年まで「古墳時代三世紀開始説」に賛成でした。
私には考古学の知識はありませんが、三角縁神獣鏡が三世紀に製作されたのであれば、古墳時代も三世紀にはじまったと考えるのが自然だからです。
そんな私の意見を覆したのは、橿原考古学研究所の元研究員で、半世紀以上も「纏向遺跡」(奈良県桜井市)の発掘調査をしていた大物考古学者・関川尚功先生の本です。
大前提として、現在、少なくとも奈良県で最古の古墳とされているのは箸墓古墳です。従って、古墳時代の開始年代とは、箸墓古墳の構築年代となります。
そして、崇神天皇陵が四世紀中ごろ構築されていることにほぼ異論はありませんから、そこから箸墓古墳の構築年代も推定可能です。
が、実は箸墓古墳からも崇神天皇陵からも同じ「布留式」の土器が発見されており、この両者の古墳の造営年代には大差ないことが推定されるのです。
なお、遺跡や古墳の編年の決め手になるのが土器です。
纏向遺跡からは「庄内式」というタイプの土器が発掘されており、「布留式」は「庄内式」よりも新しいタイプの土器です。何故わかるかと言うと、纏向遺跡ではより新しい地層から「布留式」の土器が見つかっているからです。
纏向遺跡からは初期の布留式の土器が見つかっていますから、箸墓古墳は纏向遺跡の末期に造営されたことになり、纏向遺跡の最盛期よりも新しく、崇神天皇陵に比較的近い年代であると言うことが出来ます。
文献史学的にも崇神天皇陵と箸墓古墳は同時期のはず
関川先生の論証は説得力があります。考古学について無知な私には反論の余地がない上に、文献史学の内容とも一致する分析です。
と言うのも、『日本書紀』では箸墓古墳は崇神天皇の時代に造営されたと記されています。
それを疑うだけの根拠は存在しない以上、箸墓古墳の造営年代は「崇神天皇陵よりかは新しいが、ほぼ同年代」という考古学の立場からの結論は、大いに頷けるものです。
そうだとすると、古墳時代の開始年代は西暦四世紀だと言うことになります。
どんなに早めに見ても、「景初」や「正始」と言った西暦三世紀前半は弥生時代であると言うことは、動かせません。
それならなんで三世紀の鏡が出てくるの?
そうすると、次に浮かんでくる疑問は「それならなんで西暦三世紀に出来た三角縁神獣鏡が西暦四世紀以降の古墳から出土するの?」と言うものです。
可能性は、次の二つのいずれかになります。
①三世紀に作った鏡を四世紀に埋めた。
②そもそも三角縁神獣鏡は四世紀に製作された。
まず①ですが、これは「伝世鏡」説です。実際、古墳から弥生時代の鏡である漢式鏡が見つかることもあり、全くあり得ないことでは、ありません。
が、問題は三角縁神獣鏡は古墳から「だけ」出土すると言うことです。
漢式鏡は主に弥生時代の遺跡からも出てきます。三角縁神獣鏡は、一面も弥生時代の遺跡からは出土しません。
そもそも、関川先生は
・三角縁神獣鏡は古墳からしか出土しない
・他の鏡と比べてサイズも大きく実用的ではない
・面を石室に向けて並べられている
等の根拠から「三角縁神獣鏡は葬儀用の特別な鏡である」と結論付けています。
この論証は大いに説得力があります。すると①は成り立ちません。
ではそもそも銘文の解釈が間違っていたのか?
そうだとすると、残るは②の解釈、つまり「三角縁神獣鏡四世紀製作説」が実は正しかった!という、「これまでの議論はなんやったんかい!」とツッコみたくなるような、身もふたもない結論です。
が、これには大きな問題があります。
既に述べたように、景初四年鏡には「景初四年五月丙午之日陳是作鏡」と書いてあります。
・・・これ、どう考えても景初四年に鏡を作っているようにしか、見えないんですが。
私の銘文の解釈が間違っているんですか?だけど、他の解釈があるとは聞いたことがありませんよ?
それとも、銘文の作者が嘘つきなんですか?お墓にお供えする鏡に真っ赤な嘘を書くんですか?
・・・謎です。この謎、私にはお手上げです!
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