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仏教による律令国家再建の試み【律令国家の崩壊(3)】

 前回まで藤原仲麻呂が律令国家の理念に反する政策を実行したことと、彼が権力を握った経緯について触れました。
 藤原仲麻呂の権勢は淳仁天皇の時代に頂点に達します。そして彼の政治の結果、富は貴族に集中して、百姓は貧困に喘ぐことになりました。
 しかし、すべての政治家が藤原仲麻呂に従ったわけではありません。奈良時代後期は国家を私物化する藤原氏と、それに抵抗する人々との、激しい権力闘争の歴史でした。

「大仏なんか無駄なものを作る暇があれば民を救え!」

 最初に藤原仲麻呂への反発が表に出たのは、孝謙天皇の時代です。きっかけは「奈良の大仏」でした。
 東大寺の大仏は聖武天皇の勅願で作られましたが、完成したのは孝謙天皇の時代でした。
 その頃既に、聖武天皇の御代から民部卿であった藤原仲麻呂が推進した『墾田永年私財法』と「公廨稲制」によって百姓の生活はかなり苦しくなっていました
 奈良の大仏は今でこそ「世界遺産」ですが、当時の民衆にとっては
「庶民が苦しい生活をしている中、無駄にバカでかい仏像を作りやがって。」
というものでしかありませんでした。
 貴族の全てが利権をほしいままにしていたわけでは、ありません。橘奈良麻呂という貴族は民衆を苦しめる政治に激しい憤りを抱いていました。
 そこで、橘奈良麻呂は今の政府を倒すための仲間を集めます。まず声をかけたのは、藤原氏の謀略で父親を殺された、長屋親王の子供たちです。彼らは「父親の仇!」とばかりにクーデター計画に参加します。
 さらに、藤原仲麻呂に逆らった結果、地方に左遷された人たちも味方に就けました。彼らはいざ橘奈良麻呂らが反乱を起こすと地方から軍隊を率いて駆けつけることになっていました。
 この計画は事前に露見しましたが、橘奈良麻呂は取り調べに対しても堂々と
「今の政府は民衆が苦しんでいるというのに、大仏を作るというような無駄なことばかりをしている!」
と、政府批判を繰り返します。
 政府はクーデター計画の参加者に厳しい取り調べを行いましたが、その結果判明したのはとてつもない民衆による政府への不満でした。
 主な参加者だけで22人もおり、関係者を含めると数百人はいるという、前代未聞の大規模な反乱計画だったのです。藤原氏の中からも同調者がいたことが発覚しました。
 結果、400人以上の人が処罰・処分されましたが、これはあくまで力で抑え込んだだけであって、人々の不満が消えたわけではありませんでした。

鑑真和上の怖いほど当たった予言

 さて、孝謙天皇の側近である吉備真備は長く大宰府(九州)に左遷されていましたが、その間に一人の偉いお坊さんを連れてきました。中国から来た鑑真です。
 鑑真というと、多くの人は
「目が見えなくなった人やね!」
と反応しますが、実際には目は見えていたそうです。
 その鑑真さん、仏教の戒律を厳格に守るお坊さんで、日本の律宗の祖となっています。律宗のお寺は今でもありますが、残念ながら今の律宗のお坊さんの全員が鑑真ほど厳格に戒律を守っている訳では、ありません。
 それはともかく、戒律を厳格に守って修行していると、神通力という一種の朝能力が身につく、という話があります。嘘か本当かは判りませんが、鑑真さんも人相占いの名人だったという逸話が残っています。
 鑑真の占いの噂を聞いた藤原仲麻呂の娘である東子も、鑑真に占ってもらうために唐招提寺へと向かいました。
「鑑真さん、私の男性運を占ってくださらないかしら?」
 すると、鑑真は美少女で有名な東子の顔を見ながら、こう言います。
「貴女は千人の男性と交わるであろう。」
 当然、この時東子は鑑真のこの言葉を本気にしませんでした。

藤原仲麻呂の無謀な「韓国征服計画」と挫折

 藤原仲麻呂の人生を大きく変えたのが、中国で起きた「安禄山の乱」という内乱です。当時、中国で大規模な反乱がおきていました。
 渤海(満洲)の使者からその情報を聞いた藤原仲麻呂は、大喜びしました。
「よし!今なら日本もあの中国に勝てるぞ!まずは、手始めに新羅(韓国)から征服しよう!そもそも、本来朝鮮は日本の領土なのであって、新羅が日本の言うことを聞かないのはオカシイのだ!」
 いつの時代にも独裁者は人気を失うと目を海外に向けようとするものです。戦争が起きると国民の意識が戦争に集中するからです。
 しかし、この新羅征服計画は孝謙上皇の強い反対で失敗します。
「孝謙上皇は何も判っていない!朝鮮半島は本来日本領なのだ!孝謙上皇は愛国心が足りないから俺の計画に反対しているのだ。これからは軍事権を私が握る!」
 朝鮮半島に倭国の領土である任那があったのは何百年も前の話ですが、藤原仲麻呂は何百年も前の話を持ち出して、国民の愛国心を利用して支持を集めようと画策したのです。
 その為には軍事権を握る必要があります。何年もかけて藤原仲麻呂は自身の軍事権を徐々に強化していきましたが、それが孝謙上皇の逆鱗を買いました。
 孝謙上皇は藤原仲麻呂から駅鈴を没収することを決めました。駅鈴というのは馬につける鈴のことで、これが無いと合法的に軍隊を動かせません。
 藤原仲麻呂はこれに抵抗したため、戦闘開始です。藤原仲麻呂は反乱軍となり、孝謙上皇の軍に討伐されました。
 一週間以上に及ぶ戦闘の上、藤原仲麻呂は敗死します。そして、仲麻呂の娘の東子は鑑真の予言通りに上皇側の兵士千人に凌辱される憂き目に遭いました。

道鏡による律令国家の立て直し

 次に権力を握ったのが、鑑真の孫弟子である高僧の道鏡でした。
 道鏡はインドの言葉であるサンスクリット語も語れるほどの優秀な僧侶で、十代の頃から熱心な仏教徒であった孝謙上皇から重宝されるようになります。
 孝謙上皇は藤原仲麻呂の乱の後、再び即位して称徳天皇と呼ばれるようになります。
 道鏡は僧侶として大乗仏教の観点から藤原氏支配を食い止めようと考えました。
 まず、『墾田永年私財法』を停止しました。これにより格差拡大を食い止めたのです。
 次に、律令国家は一応「全ての国民は平等」という原則はありましたが、一方で厳格な身分制社会でもあったので、それを是正しようとしました。
 当時、国民は大きく「良民」と「賤民」とに分けられていました。賤民は黒い服を着なければならないなど、激しい差別にあっていました。(同時代のインドやヨーロッパの奴隷ほどひどい差別はなかったとも言われていますが、賤民の中でも「奴婢」という階級の人たちは牛や馬とほぼ同じ値段で売買される、と言った実態があったのは事実です。)
 一方、僧侶には賤民階級の人間でもなれることが規定されていました。そもそも、仏教は元々、インドの身分制度であるカースト制度への反対運動という側面もありました。ですから、僧侶が身分制度に反対するのは当然のことでした。
 道鏡は賤民階級の人たちへの解放政策を積極的に進めます。賤民階級の人たちの良民化が進みました。
 とは言え、必ずしも差別がすんなり無くなったわけではありません。すべての賤民を解放する前に道鏡は失脚しましたし、新たに良民になった元賤民の人たちは「今良(ごんりょう)」と呼ばれ差別されました。
 今の同和問題でも判るように、この問題は一朝一夕に解決できるものではありません。とは言え、道鏡の政策は当時にしては先進的であったといえます。
 また、道鏡は肉だけでなく魚も食べない、今のヴィーガンに近い食生活の真面目なお坊さんでした。大乗仏教では人間だけでなく動物も救済の対象だからです。
 道鏡の提案を受けて、天皇への肉や魚の献上も無くなり、天皇陛下もヴィーガンとなりました。これも画期的なことであったといえます。
 しかし、称徳天皇の崩御後に道鏡や吉備真備は失脚、その後即位した光仁天皇によって道鏡らの改革は撤回されます。(続く)

※道鏡については「皇位簒奪を企んだ大悪人」という評価がありますが、それはデマです。詳細は『選報日本』の私の記事をご一読ください。


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