国家の私物化を極めていった平安貴族【律令国家の崩壊(4)】

 称徳天皇の崩御後、道鏡と吉備真備が失脚したこともあり、『墾田永年私財法』が再び施行されました。
 藤原仲麻呂は朝敵として敗死しましたが、彼の遺した制度は藤原氏を始めとする貴族たちによって大いに“活用”されたのです。そして、それが律令国家崩壊への導火線となっていきます。

地元の有力者から貴族・有力寺社への「寄進」が続出

 少し難しい話になりますが、高校日本史の教科書やWikipediaを見ると「初期荘園」と「寄進系荘園」という用語が出てきて、荘園にもこの二種類がある、みたいに説明されています。しかし、この二つの違いをうまく説明できる人は少ないでしょう。専門家でも意見が分かれているのですから。
 私もそもそも「初期荘園」と「寄進系荘園」に大きな断絶はない、という立場ですので、ここではこの二つの区別はしません。繰り返しますが、専門家でも意見が分かれているので、初心者の人がこの二つの用語を区別する必要もないと思います。
 ただ、「寄進」という言葉は一つのキーワードとして覚えてほしいと思います。
 『墾田永年私財法』では「身分によって所有できる土地の面積に制限がある」ということは既に述べました。
 つまり、広大な土地を所有できるのは貴族や有力寺社だけなのです。
 無論、貴族ではない有力百姓の中にも広大な土地を開墾する人はいます。しかし、彼らは合法的にその土地を所有できません。
 私有地にできない場合は国府(地方自治体)に没収され、他の百姓たちに分配される「口分田」の一つになってしまいます。
 そんな中、貴族たちから「悪魔のささやき」が来ます。
「君たち!その土地を私たちに差し出したらどうかね?いや、ただでとは言わない。収穫のほんの一部(賃租)を私たちにくれたならば、残りの収穫物はすべて君のものだ!どうだ?国府に没収されてすべて失うよりもいい話じゃないかい?」
 そう、貴族たちは広大な土地を所有する権限を持っていますから、貴族たちに土地を差し出せば国府に没収されなくて済むのです。これを「寄進」といいます。
 貴族からすると、自分は何もしていないのに、他人が開墾した土地を自分のものにできるのです。これほど美味しい話はありません。
 一方、寄進する側の有力百姓も土地の所有権こそ失いますが、賃租という収穫の一部を貴族に支払いさえすれば、残りの収穫は自分の収入になります。国府に没収されると0になりますから、それよりもマシです。
 こうして貴族に開墾した土地を寄進する有力百姓が続出しました。こうして出来た貴族の土地を「荘園」と言います。

「借金取り」と化した国司たちから逃げる百姓

 ところで、荘園に関する史料を見ていると、新たに開墾された土地(墾田)だけでなく政府から百姓に支給された土地(口分田)をも事実上荘園の一部となっている例が見られます。
 口分田を私有地のように扱うのは違法ですが、荘園の所有者は上級貴族なので国司たちも強くは言えないようです。
 それどころか、多くの国司は依然説明した「公廨稲制」により、百姓たちに税を原資に借金を貸し付けて、その利子収入を自分のものにしていました。いわば、国司が借金取りになっていたのです。
 こうした国司たちは百姓から如何に搾取して稼ぐか、ということしか考えていません。挙句の果てには、そうやって搾取した収入の一部を中央の貴族に賄賂として渡していました。
 中央の貴族も賄賂を受け取ると国司に対して甘くなります。国司の中には自分の金儲けしか考えず、本来の仕事をマトモにしていない人も少なくありませんでしたが、彼らの多くはマトモに取り締まられることはありませんでした。
 そんな状況ですから、口分田の管理がきちんと行われていない状況も頻出していたのです。
 それだけではありません。国司からの搾取に耐えかねて百姓たちが逃亡するケースも目立ちました。
 逃亡した百姓たちはどうしたかというと、貴族や有力寺社の荘園で雇ってもらうことになりました。
 貴族や有力寺社は広大な農地を持っていますから、人員は常時募集状態です。貴族からすると国司が百姓から搾取した賄賂でも稼げますし、その結果百姓が逃亡しても自分たちの荘園の労働力が増えるだけ、と、まさに利益しかない状況になりました。

桓武天皇による改革も頓挫

 奈良時代から平安時代に移行すると、貴族たちの腐敗はさらに酷くなります。
 無論、朝廷もそれを黙って見ていたわけではありません。
 桓武天皇は口分田の分配を「6年に一度」から「12年に一度」にする改革を行いました。
 口分田は6年に一度、6歳以上の子供たちに分配されます。一度支給されると死ぬまで自分のものとなり、死後は政府が没収して、また次の6年に一度の年に子供たちに分配する、という仕組みです。
 それを「6年に一度」から「12年に一度」にして国司の負担を減らす代わりに、口分田の管理はきちんとしろよ、というのが桓武天皇の意図でした。
 そして、国司がきちんと仕事をしているかを調べるために勘解由使という役所も設置しました。
 勘解由使は国司の報告書を監査して、おかしなところがないかを監視するわけです。
 しかしながら、その勘解由使の長官も貴族が就任します。これでは厳しい監視など、期待できません。
 しかも、貴族たちは単に経済的に百姓を搾取するだけではありませんでした。律令すらも無視するようになるのです。(続く)

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