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奈良時代の日本を覆った“長屋親王の亡霊”【律令国家の崩壊(2)】

 前回は藤原仲麻呂がどのような政策を実行していったのか、を説明しました。
 しかし、一人の人間の悪知恵だけで歴史が変わることはありません。藤原仲麻呂がどのように権力を握っていったのか、また、藤原仲麻呂の政策が後世にどのような影響を与えたのか、というところも見て始めて律令国家が崩壊した理由が判ります。
 というわけで、今回は前回よりも少し時計の針を前に戻してみます。
 藤原仲麻呂を民部卿(今の財務大臣)に任命したのは聖武天皇でした。話は聖武天皇の御代の最初の方に遡ります。

長屋親王と藤原氏との対立

 元々、聖武天皇の御代の朝廷の実力者は長屋親王という人でした。
 なお、長屋親王は歴史教科書には「長屋王」と書いてあります。「親王」と言うのは「天皇の子供や兄弟」に、「王」は「天皇の孫や曾孫等」に使われる称号で、長屋親王は「天武天皇の孫」ということになっているので「長屋王」が正しい、ということになっているのです。
 この国の「正史」である『続日本紀(しょくにほんぎ)』にも「長屋王」と書いてありますが、当時の遺跡から発掘された同時代の木簡には「長屋親王」と書いてあります。
 このことから、本来は「長屋親王」であったと考えられます。ということは、長屋親王の父親は実は天皇だったのではないか、という推測も出来るのですが、それはまた別の話ですのでここでは省略します。
 長屋親王は皇族である上に、実力もある政治家でした。
 前回紹介した『三世一身の法』を制定したのも長屋親王です。また、災害時には被災地に減税措置をとるなどの政策も推進していました。
 そして、官僚たちの腐敗も厳しく取り締まり、律令国家の理念実現に邁進していたのです。
 そんな中、藤原氏がある提案をしました。
「私の一族の光明子を天皇陛下の皇后にしたいのだが。」
 しかし、それに長屋親王は猛反対します。
「皇族以外が皇后になると国家の秩序が乱れる!」
 どういうことか。当時は女性天皇も多く、女性が政治に参画することも珍しくありませんでした。
 つまり、「皇后」というのも一種の「政治家」だったのです。
「皇后は皇族じゃないと、皇室を藤原氏に乗っ取られるかもしれないぞ!それだけは阻止しなくては!」
 一方の藤原氏は逆に「藤原氏の血を引く天皇」の誕生を夢見ています。
 聖武天皇の母親も藤原宮子という藤原氏の女性でしたが、宮子さんは皇族では無かったために皇后にはなれず、さらに精神障碍を患ってしまい、政治的な実権は全く持っていませんでした。
 藤原一族は宮子の二の舞を演じたくはありません。
「宮子は実権を握れなかったが、光明子には無事皇后になって次の天皇を産んでもらい、そして、天皇の母親として実権を握ってもらうのだ!」
 この藤原氏の野望は、長屋親王とは正面から対立するものでした。

元祖・国策捜査「長屋親王の変」

 当時、藤原氏を率いていたのは武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟です。彼らの妹が光明子です。
 神亀4年(西暦727年、皇暦1387年)、ついに光明子が聖武天皇の子供を産みました。基王です。
 まだ光明子は皇后にはなっていませんが、藤原四兄弟は今のうちに既成事実を作ってしまおうと、基王をまだ生後一カ月の状態で皇太子にしました。
 先ほど言いましたように聖武天皇の母親も皇后ではないので、母親が皇后でなくても皇太子にはなれますが、他に男性の皇族もいる中で生後一カ月の赤ちゃんを皇太子にしたのは異例のことでした。
 が、朝廷の実力者である藤原四兄弟に媚びを売ろうと、様々な政治家がまだ赤ちゃんの基王に挨拶に行きます。
 しかし、長屋親王は基王への挨拶に行きませんでした。これで藤原四兄弟は怒り心頭。
「長屋親王め!どうして基王に挨拶に来ないのだ!」
 とは言え、長屋親王は朝廷の左大臣。今でいうと内閣総理大臣であり、一番権力を持っている存在です。藤原四兄弟も正面から長屋親王に逆らうことは出来ません。
 そうこうしているうちに基王は一歳にもならずに薨御してしまいました。
 これを受けて、藤原四兄弟は起死回生の一手に出ます。
「基王は長屋親王に呪い殺されたのだ!証人もいるぞ!」
 そう、中臣宮処東人という下級役人が「長屋親王が基王を呪い殺した」と密告したのです。
 藤原四兄弟の一人である藤原宇合は当時、軍隊に関する役職についていました。直ちに軍隊を率いて長屋親王の邸宅を包囲します。
 軍隊に邸宅を包囲された長屋親王は自害しました。このクーデターを「長屋親王の変(長屋王の変)」といいます。
 なお、中臣宮処東人による密告は後に嘘であったことが判明しています。

阿倍内親王が女性初の皇太子に就任

 長屋親王が自殺したので、無事、光明子は皇后になれました。光明皇后です。
 さて、聖武天皇と光明子の子供は基王だけではありませんでした。基王は二人目の子供。最初の子供は阿倍内親王という女の子です。
 阿倍内親王はとても仏教の信仰が厚い女性でした。天平7年(西暦735年)数え年で18歳、今でいう高校生程度の年齢であった阿倍内親王は、聖徳太子の霊と聖武天皇に対して『法華経』の講読を奉ることを決め、自分で費用を出して行信という偉いお坊さんに『法華経』講義をさせています。
 そして、十代の間に全十巻の『今光明経』というお経を二回も全巻写経しています。
 聖武天皇と光明皇后も熱心な仏教徒です。娘が仏教に熱心なことにすっかり気を良くします。
「ねぇ、皇太子って、別に女の子でも良かったんじゃないの?」
「そうだな、皇太子は男子に限るという規定はなかったはずだ。」
 何としてでも藤原氏の血を引く天皇を誕生させたい藤原四兄弟もこれには大賛成。
 数えで二十歳になった年に阿倍内親王は最初(で最後)の女性皇太子となります。

天然痘パンデミックで藤原仲麻呂の出番に

 さて、そこまで野望を達成した藤原四兄弟でしたが、天平9年(西暦737年)に中国から天然痘という病気が日本に上陸します。
 藤原四兄弟は早めに九州の大宰府から天然痘上陸の報告を受けていたのに、神頼みをするばかりでマトモに対処せず、感染拡大を許してしまいました。
 それどころか、海外からの使者を大歓迎するなど、自らクラスターを作る始末です。
 これは中国でサーズ2号コロナの感染拡大が報告されていたにも関わらず、春節に自ら中国人観光客の訪日を呼び込んだ安倍首相にそっくりです。いつの時代にも悪い政治家のすることは変わりません。
 天然痘の感染拡大を防ぐどころか、自ら海外からウイルスを招いた藤原四兄弟は、見事に自分たちも天然痘にかかって死んでしまいました。
 そこで藤原氏を率いることになったのが、光明皇后の甥っ子である藤原仲麻呂です。
 さて、藤原四兄弟の死亡は当時の人にはどう映ったでしょうか?
「自業自得だ。長屋親王を自殺に追い込んだりしたから、罰が当たったんだ。」
「庶民が天然痘で苦しんでいる間、あいつらは何もしなかったじゃないか。おい、まさか、あいつらの葬式に税金を使うんじゃないだろうな?」
・・・というのが、当時の世論の大勢であったようです。
 藤原四兄弟は政府高官なので、葬式も盛大に行われるはずでしたが
「藤原四兄弟の葬儀に税金使うな!」
という世論が盛り上がってしまったためか、遺族が葬式の開催を断る事態になりました。
 こうした状況を見て「藤原氏の傀儡になんかなってなるものか!」と思った女性がいました。皇太子の阿倍内親王です。
 阿倍内親王も表向きは母親の光明皇后の顔色を見て藤原氏とも親しくしていましたが、吉備真備を始めとする藤原氏以外の政治家と親交を深め、徐々に藤原氏の力を弱めていこうと考えるようになります。

淳仁天皇の即位と藤原仲麻呂の権勢

 さて、聖武天皇の娘は阿倍内親王だけではありませんでした。
 聖武天皇は県犬養広刀自という女性との間に井上内親王と不破内親王という、二人の女の子もいました。こちらの方が阿倍内親王よりも年上です。
 さて、当時の律令では女性の皇族の結婚相手は限られていました。
 そもそも、よく「古代は一夫多妻制だった」と誤解する人もいますが、律令でも原則は一夫一妻制です。それも、かなり厳格な。
 律令によると、婚前交渉をしていたカップルは、結婚できません。もしも結婚後に婚前交渉が発覚した場合は、強制離婚です。
 もっとも、どんな法律でも抜け穴はあるもので、禁止されていたのは婚「前」交渉であって婚「外」交渉では、ありません。ただ、法律で禁止されていないからと言って、不倫が公認されていたのか、というと当然そうではありません。
 聖武天皇の次女である不破内親王は塩焼王という皇族に嫁いでいました。
 が、ある日、塩焼王の浮気が発覚します。
「朕(私)の娘と結婚しておきながら浮気をするとは、許せぬ!娘よ、塩焼王の浮気相手とは、一体、どこの女なのだ!?」
「お父様・・・。その、塩焼王の浮気相手は、お父様の侍女です。」
「なんだと!」
「それも、お父様・・・。四人の女相手に浮気しているのです!」
「許せん!娘の夫を寝取った女四人は投獄しろ!塩焼王は伊豆に流罪だ!」
 その後、聖武天皇は阿倍内親王に譲位しました。阿倍内親王は孝謙天皇として即位します。
 そして、聖武天皇は孝謙天皇の次の皇太子に道祖王を指名しました。遺言でも孝謙天皇に
「道祖王を次の天皇にするように」
と言い残して崩御します。
 が、この道祖王もとんでもない男でした。
 ある日、孝謙天皇は重臣を集めて会議を開きました。
「皇太子の道祖王って、日ごろから女癖が悪い上に、まだ上皇陛下が崩御して間もないというのに、いやらしいことをしていたそうじゃない。」
「え?道祖王が喪も開けないうちに、女性と不倫ですか?」
「いや、違うのよ。今度の相手は男の子だというの。」
「え?あの男、女癖だけじゃなくて男癖も悪いのですか!」
「だから朕(私)は困って仏様にお祈りしているんだけど、すると夢の中で『皇太子を代えたらいい』と出たの。これ、ただの夢かしら?」
「いや、それはさすがに、皇太子を代えても良いと思いますが・・・。」
「良かった。では、新しい皇太子は誰がいい?」
「血筋から言うと、塩焼王かと。」
「いや、あの男だけは、無理。私のお姉様を裏切った男よ?他に誰か、マトモなのはいないの?」
 重臣たちも「マトモな皇族って、いたか?」と考えているところへ、民部卿から大納言に昇格していた藤原仲麻呂が発言しました。
「それならば大炊王が良いと思います!」
 大炊王は『日本書紀』を編纂した舎人親王の息子。確かに血統も悪くはありません。他に有力候補がいないので大炊王が皇太子に決まり、孝謙天皇も大炊王に譲位しました。これが淳仁天皇です。
 しかし、実はこの淳仁天皇の妻と言うのは、藤原仲麻呂の義理の娘でした。淳仁天皇は即位する前は藤原仲麻呂の家で暮らしていたほど、藤原仲麻呂と近い関係にあったのです。
 そう、光明皇太后と淳仁天皇という、二人の権威を背景に藤原仲麻呂はほぼ独裁的な権限を持つことが出来たのです。そして、譲位して上皇となった孝謙上皇は実権を失っていきました。
 ここまでが、藤原仲麻呂が律令国家を崩壊させるほどの権力を握った理由ですが、この後、孝謙上皇側の反撃が始まります。(続く)

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