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「努力」とは隠し味のチョコレートみたいなもの
昭和のスポ根ブームから数十年、、
現在、令和では
「努力は意思や才能と関係ない」
なんていう文言をよく耳にしますよね。
(まあ僕は平成生まれなんですが)
じゃあ努力って一体何なんだよ。
とよく思う僕ですが、その正体について
今回は考えようと思います。
「努力」という言葉と必ずと言っていいほど
セットで使われるのが良い結果。
すなわち、「成功」ですよね。
「努力」を悪い結果の理由として使うことは全くないと思います。
そのうえで、「努力」とは何か。
結論としては
「努力」とは隠し味のチョコレートのようなもの
というのが僕の考えです。
例えば
お店で出されたカレーを食べる時に
「このカレー美味しい!もしかして隠し味にチョコレートが入ってる?」
なんて思うとします。
色では判断がつきません。元から茶色ですから。味に敏感な人なら確信するかもしれませんが、まあ大抵の人は「入っているかもしれないな」くらいでしょう。
どちらにせよ、もうカレーの中に溶けてしまったチョコレートをあるかないかなんて
作った人にしかわかりません。
もし仮に、作った人に尋ねたとしても、
入れた瞬間は見ていないのだから食べた人はわかりませんよね。
そして、その美味しいカレーが
もし美味しくなかったら「隠し味が入ってるかどうか」なんて気にしませんよね。
そのカレーが美味しいかどうかは、実際に食べてみるまでわかりません。
そして、人によってそれが美味しいかどうかは意見が分かれると思います。
何が言いたいかというと
チョコレート(努力) という隠し味は
美味しいカレーだと思われた(良い結果だと判断された)からこそ
初めて存在が疑われるものであり、
もし仮に美味しいと思われななかった(悪い結果だと判断された)としたら、そこには隠し味(努力)は存在しないと思われるでしょう。
これは実際にそのカレーを食べてみて
初めて判断できることですし、
人によって味覚も異なるため、
きわめて結果論的かつ相対的です。
そして、もう一つ重要なのは
カレーを作った人が隠し味を、隠し味だと思っているかどうかです。
周りは隠し味だと思っていたとしても、本人はそれを元々の材料と同じように分類していているかもしれません。
ですので、隠し味(努力)かどうかは、作り手の主観でしかないということです。
カレーの話が長くなってしまい大変申し訳ありません、、
まとめると、「努力」の特徴は3つあると思います。
①結果論的
→良い結果だと判断された時、はじめて他者から存在が疑われる
②相対的
→そもそも人によって良い悪いの判断は違う
③主観的
→本人が努力を努力だと思っているかで、有無が決定する
※①と②は三人称視点、③は一人称視点
当たり前のことを羅列しましたが
こうやって3つの特徴を並べてみると
努力を他人に促すことや努力についてあれこれ考えること がいかにアホらしいかがわかりますね(僕含め)
こんな不安定で曖昧な言葉を
無闇矢鱈に使うものじゃないなと思いますね。
この言葉がなければ少しは生きやすくなるのかなぁ。。そんな独り言でした。
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