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広島市内①[2023.8.2]

前回の旅行はゴールデンウィークのときだったので、それから2ヶ月。5月が遠い昔のように感じる。

学期が終わったので、広島に行くことにした。なぜ広島にしたかって?広島のお好み焼きが食べたくなったから。

新幹線は早いけど高いので、高速バスで行くことに。朝8時頃に出発、途中で休憩を挟んで12時すぎに広島バスセンターに到着。

バスセンターを出て、とりあえず昼ごはんの店を探す。歩いていると視界は高層の建物で覆われる。地方中枢都市はだいたいそんな感じだろう。広島にしても、名古屋にしても、駅を出ればショッピングモールに沿いながら歩くことになる。

頭の中はお好み焼きで一杯なのだが、ケータイを取り出すのも面倒なので、なかなかお店が見つからない。まあ、お好み焼きにこだわることはない。まだ今日の夜、それから明日とチャンスはあるのだから。

というわけで、お好み焼きは諦めて、入口のドアから空席が見えているラーメン屋に入ることにした。

広島ラーメンは、醤油とんこつ味が特徴らしい。確かに、そんな味だったかも。硬麺にしたので食感は覚えているが、味はだいぶ忘れている。

エネルギーをチャージできたので、最初の目的地である原爆ドームと平和記念資料館へ。今日はめちゃくちゃ暑い。うまい具合に日陰を通らないと、大変なことになりそう。

横断歩道を渡ると、すぐに原爆ドームが見えてくる。思ったより街の中心部にあるんだな。それもそのはず、元々は産業奨励館だったところ。

小6の修学旅行のときは、国語の時間に産業奨励館について習っていたから、当時はこれが原爆ドームか、、、と恐る恐る見入っていたのを覚えている。

とりあえずこの場をあとにして、資料館に向かった。6日が近いので、式典の準備が進んでいる。

資料館の白い建物が見えてきた。そうそう、この辺りで体育座りをして、これから入ります、みたいな時間があった。でも、僕の記憶は断片的でしかない。過去に訪れたところを再度訪れることの良い点は、記憶を修復できることだ。正直、小学生の時の記憶など非常に曖昧で、当時見たはずの風景はとうに忘れてしまっている。でも、再度訪れることで、あのとき自分が目にしていたのはこれだったのだと、再確認することができる。

驚いたことに、資料館の入口から長蛇の列ができている。しかも、海外からの人がほとんど。僕はこれを見て嬉しくなった。こういうご時世の中で、世界中から来た人が、戦争の惨禍を記録した資料館を訪れてくれている。

中に入るまでだいぶ時間がかかるかと思ったが、意外とスムーズに入ることができた。エスカレーターを登ると、まずは8月6日を挟んだbefore/afterの景色が広がる。6日より前の広島は、道行く人でごった返している。だが、6日を経た広島は、一面がれきの山。破壊し尽くされている。

広島の資料館は、とにかく遺物と写真、映像で訴えかける。これらの資料が描き出すのは、この世に突如現れた地獄である。被爆者が次々と避難所になだれ込み、治療を受ける。もし自分がこの日、爆心地近くにいたら、正気ではいられないだろう。

あまりに残酷すぎて、これが現実に起こったことだということさえ疑わしくなってくる。人間は、そういうことができてしまう。

僕は、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を読みながらこの旅行をしていた。後遺症に苦しむ被爆者にとって、自ら命を絶ってしまうことは、何らおかしいことではない。それでも彼ら・彼女らは、命ある限り生き続ける。生き続けることで、核がもたらすあまりに酷い帰結を、人間の恐ろしいほどの浅ましさを、世界に訴えかける。そのことに、筆者は人間としての威厳を見出している。

資料館を訪れて、そして『ヒロシマ・ノート』を読んで、改めて思ったことが2つある。1つは、日々の生活について。形態は色々あるにせよ、ある日突然、昨日までと同じような生活を送れなくなることがある。それは病気かもしれないし、自然災害かもしれないし、あるいは戦争かもしれない。そのとき、自分にはどうすることもできないし、それを責める必要もない。では、そんな不確実な日々を送るにはどうすればよいのか?今日一日、いつも通りの生活ができることを感謝するしかない、と僕は思う。それ以上にできることはない。人間も無力なのだ。

もう1つは、8月6日の出来事について。向き合わなくてもいいのなら、進んでしたくはないことだ。でも、1人の人間として、8月6日という事実に関心を持ち続ける必要があると思う。思想家の内田樹が、誰しもがこの世に遅れてやってくる、みたいなことを言っていた気がする。生まれた瞬間、その人は長い歴史の積み重なったこの世界の一員となる。我々は自分が生まれる前のことを知らなければならない。戦争のことはなおさら。だって人間の歴史は戦争の歴史なのだから。

資料館の最後は核兵器廃絶に向けた取り組みを示すパネル展示だ。国際的に核兵器削減への取り組みが進み出したのは、1970年に入ってからだ。68年に核不拡散条約が国連総会で採択され、核兵器を保有してよいのは国連の常任理事国である5カ国に限定された。インド・パキスタン・イスラエルはこの条約に未加盟だが、核兵器を保有していることが確実視されている。また、イランは加盟しているが保有が疑われている。

米ソ間の取り組みが進んだのもこの時代だ。72年のSALTⅠでは両国の弾道ミサイル数の上限を規定。続くSALTⅡでは核兵器の運搬手段の数量制限および複数弾頭化の制限が盛り込まれたが、これはソ連のアフガニスタン侵攻の時期と重なったこともあってアメリカが批准を拒否。91年のSTARTⅠでは弾道ミサイルと運搬手段の削減が目指され、2001年に両国は弾道数が実際に削減されたことを確認している。

2021年には核兵器禁止条約が採択された。これは核兵器を包括的に禁止する条約だが、非締結国への法的拘束力は無い。日本はアメリカの核の傘にあることから締結していない。

ちょうど先日、作家の平野啓一郎がこんなツイート(いまやXなのでツイートではない)をしていた。

核を持たなければ戦争を防ぐことはできない。平野に言わせれば、これはマッチョでオッサン的パワハラ思考。ヒロシマはもっと個の生を見ろと訴えかける。

お互い、相手を信頼し合って手持ちの武器をさらけ出す。そしてそれが平和のために不要ならば、手放してしまう。そんな外交ができないものだろうか。

資料館をあとにして、原爆ドームの周りの公園をぶらついた。川の向こう側。修学旅行のときは、この辺りで弁当を食べたことを記憶している。夕方、宮島へ行ったっけ。

今日はまだまだ長い。引き続き記録していきたいが、結構長くなってしまったので続きは次のノートで。

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