「冷い夏、熱い夏」

何がキッカケでコレを読んだのかは忘れちまったけど、あまり良い読者ではない吉村昭氏のノンフィクションのような長編小説(?)。

元気だった弟が、レントゲンで胸部にガンが見つかり、凄まじい闘病生活を経て、最期に看取るまでを記録したもの。

弟は50歳で亡くなったが、最初の手術後、1年以上の延命例が皆無だったことを知らされた著者は、弟に、ガンであることを徹底的に隠して、周りの協力も得て、“良性の腫瘍”ということで通した。

なぜ告知をしなかったのかと言えば、日本人の死生観に向かないからだとする。

欧米のように、患者にガンであることを伝え、残された時間を有効に過ごさせようとする考えには反発を覚え、欧米人の死生観と日本人のそれとは基本的な相違があると言う。

日本人の死に対する考えは、はるかに情緒的なもので、死んだ肉体も決して単なる物体ではなく、死は安らぎを意味するものと訴える(遺骨収集の話でもよく出てくる)。

「死は、ある瞬間に犯しがたい確かさで定まり、その直後から死者は追憶の世界にくりこまれる」…。

だから告知して本人を苦しませるよりは、告知をしない方が良いと言う。

この本が書かれた昭和50年の頃はそうだったかもしれないが、今の俺はその考えには反発を覚えるね。

つまりダイレクトに死を考える、接することから逃げているとしか思えない。

激痛に苦しむ弟に対して、あくまでもガンではないと言い張って、弟は薄々わかってるようで可哀想だ。

もちろん患者個人の意思が尊重されるが、ある程度、諦めがついた方が、ガンと闘う意思が強くなって、もしかしたら少しでも回復の方に向かうかもしれないのに。死に対する恐怖感は仕方がないものだ。誰でも持ってるし。

まずは、弟の朽ちていく肉体をつぶさに見つめることだ。感情を暴発させても良い。ガンに侵されて死んでいく弟を逃げることなく、側で寄り添ってあげることこそ、身内としての努めであり、引いては供養にもなるだろうと俺は考えるね。

そう言いながら、著者は、かなり早くに弟の葬式の準備をするし、医者に呼ばれて病院に行ったけど、面会が怖くて妻に行かせるし、何よりも弟の奥さんよりも医者との面会や病院の手続き等、先に手を出して“余計なお世話”なことが多々あるし、凄まじくて面白く読んだけど、俺には理解し難いことが多かったな。

さて、自分が弟の立場だったらどうだろう。やっぱりちゃんと告知してくれた方がいいかな。それからの時間の使い方も変わってくるだろうし。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。