「ソドムの百二十日」

以前、澁澤龍彦訳の本(桃源社のサド全集)は持ってたし、パゾリーニ監督の変態映画「ソドムの市」も観た、マルキ・ド・サドの未完の小説「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」。

フランス革命前の、サド公爵が“猥褻行為”他で捕まってバスチーユ牢獄に入ってる時に書かれたもので、大長編悪徳小説となる予定だったが、フランス革命のゴタゴタで一部は紛失したらしい。

小説の一部だけど、改めて佐藤晴夫訳でジックリと読むと、考え得る限りのあらゆる悪徳(人間の行動の全てが情欲に成り得る)を詰め込もうとしたサド公爵の凄まじいまでの意欲が感じられて嬉しくなるってもんだぜ。これぞ暗黒文学、凄まじい世界だ。

莫大な財産を持つ4人の放蕩貴族達が、森の中の城で、フランス中から誘拐・拉致して来た美少年・美少女らと、120日間に及ぶ、あらゆる性的饗宴を繰り広げるということが物語の基本だ。

完成してるのは、序章と第1部のみで、第4部までの残りは草案のみで未完成となっている。最初から飛ばし過ぎで、途中からアイデアが枯渇したんじゃ、と思わせる。

ただ、美少年・美少女らとヤりまくるだけだったらまだ良いが、糞尿、排泄物などを食べて飲むというスカトロジーの嵐でもあり、想像するとゲンナリしてしまう。

しかも、赤ん坊から老人、美から醜まで、1人の人間について、人格など無視して、徹底的に凌辱し、その排泄物まで食し、食べさせ、最後は性的嗜好に則って殺害する…つまりは、人間を欲望や性的嗜好のうちに、徹底的に操ることを至上の喜びとするようだ。

それだけだったら単なるエロかもしれないが、サド公爵の小説は、サド自身の“悪徳の哲学”がしっかりと示されているから面白いのだ。性倒錯、悪徳、暴力、殺人、犯罪、無秩序、反道徳、無神論…。

「人間が、この世で本当に幸福であろうとするならば、一切の悪徳に身を任せるだけではなく、自分に対してたった1つの美徳も許してはならないのだ」

「悪事は、あらゆる感覚を目覚めさせるだけの十分な魔力を備えているから、他の策を使う必要はない。世間の人々は悪事と放蕩は全く違うと思ってるらしいが、悪事は放蕩と同じように私の一物を元気付ける」

「不幸な人間を慰める事は、例えどんな行為であっても、自然界の法則に反する犯罪行為なのだ。自然界の法則は不調和で不一致なのだから、我々個人は財産においても肉体においても不平等なのさ。だから、弱者は他人の財物を盗むことによって不平等を修正しようとしている。強者は、弱者に対する援助を拒否することによって不平等を確立し、あるいは防衛しようとしているのさ。あらゆる存在の間に区別がなくなり、全てが類似したものになってしまったら、自然界は一刻も存続し得ないだろう」

「悪徳は自然界のひとつの行動様式であって、自然界が人間を動かすひとつの仕方なのだ。自然界は美徳も悪徳も必要としているのだから、私が悪徳を犯しているときは、美徳も行っていることになる」

「信仰心と言うものは正しく魂の病気なのです」…。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。