身体改造の世界

ピアスにタトゥー、身体改造の世界…。

右片麻痺の身体だけど、また改造したいと常々、思ってる。

両前腕に埋め込みピアス、マイクロ・ダーマル・インプラントもあったけど、入院中に取られちゃったし。

倒れる前は全身24ヶ所にピアスを施して、顔と脚(一部)以外は全てタトゥーで埋まってる。イイ人になって、こんな田舎にいると忘れちゃうけどさ。

朝方、若干、大きくなって、サオに4つの球(真珠入れみたいなもの)、袋に2つの輪っかピアスがあるのをしっかりと確認できる。

ったく、親不孝なカラダだねぇ(笑)。

人間がカラダを変えたいって思うのは、根源的なものだ。ボディビルのような自然でも、ピアスやタトゥーのような非自然でも。身体改造は、自然の産物であるカラダを全部、自分でコントロールしたい欲望、そして、ハイテク化させ、マシーンの一部となって欲をもコントロールしたい願望だな。つまりは自然から独立を表してると思う。

初めてTATTOOを入れたのはもう20年以上も前になる。

「TATTOOはデジタル。1か0しかない。0の絶対値がひとたび1に触れると後は止めどがない」。

俺はワンポイントでは満足しなかった。TATTOOを入れること、その面積が増えれば増えるほど、特に服を着ても見える部分に入れたならば、現代社会に生活する上でそれなりのリスクを負うことも当然覚悟しなければならないが、それでも墨で身体を飾る魅力には負ける。

なぜこんなにもTATTOOに魅せられるのだろう。TATTOOの魅力とは何だろう。 

TATTOOには人間の本質に根ざす欲求が関係しているに違いないと思う。

人間は、初めて火を生活の手段として扱うことを始めとして、太古から欲と知恵を得ることによって自然からの独立を義務づけられてきた。これは他の地球上の生物が決して持ち得ない人間だけに許された営みであると思う。

TATTOOの始まりは多分、ケガかなにか、偶然の拍子に色が肌に入り、それが定着することを発見したことだろうが、意識下では本能的にそうした行為を知っていたのではないだろうか。

自然からの独立、つまり、TATTOOも含めて人間の文化とは、自然からの独立心の表れ、自然からの呪縛を解こうともがく必死の叫びなのだ。自然から生まれた自然の存在である人間が、食う、寝るといった自然の欲求以外に、知恵を持ち、文化を創ることは、最終的には、(不可能なことだけど)自然を征服し、自然から独立しようとしているとしか思えない。そうして人間の歴史が作られてきた。

したがって、「自然に還ろう、自然とともに生きよう」なんていう癒し系の軟弱なヒッピー思想は、実は人間自身を否定することに他ならないのだと俺は思う。

歴史上でも世紀末などの転換期や低迷期、成熟期にはこうした思想が流行るが、原点回帰とともに、文化的な人間の思考停止状態を表しているものだと思う。そういう意味でも人間は常に自然や漠然とした歴史の流れと闘う必要がある。そこから先鋭的な時代を創る文化も生まれてくるのだ。

古代の先人達がなぜわざわざ肉体を傷つけ、痛みを受け入れてまで穴を穿ち、異物(ピアス)を挿入し、墨(TATTOO)を施し、身体を装飾していたのか。それはもちろん、自然からの独立と自由を意味していたに違いない。人間自身の存在の確認に違いない。自然の呪縛を解くために違いない。TATTOO の魅力とは、そうした人間の文化的営みの最も根元的なものであることから来ているのだろう。

TATTOOには、反社会的、反体制的な匂いがつきまとう。特に日本の社会においてはそうだろう。近年は、ポピュラーな存在になってきてはいるものの、まだまだそうした部分は消えない。

古代、自由な人間存在の証しであったTATTOOは、近代になって、個人の自由と解放を忌み嫌った時の権力者によって、野蛮なものとして社会の裏側に押し込まれることになった。時には取り締まりの対象となることもあった。儒教的考えや偏見に取り囲まれてしまい、裏の世界へ追いやられてしまっていた。

しかし、そうした反動的な動きが、逆にTATTOOの魅力を高めた。TATTOOは、取り締まれば取り締まるほど、闇の存在になればなるほど、それに反発するかのように盛んに妖しい魅力を放つ傾向にある。それだけ人間を惹き付ける大きな魅力を秘めているのである。

将来、TATTOOがタブーでなくなり、一般的なファッションとして誰にも認知される時代が来るとしたら、 果たしてTATTOOは妖しい闇の輝きを放ち続けることができるだろうか?

TATTOOの「痛み」もまた魅力のひとつといえるだろう。

我慢できないほどではないが、正直TATTOOは痛い。何回彫ってても毎回、彫る前は怖さからか心臓が高鳴り、イヤ~な感じがする。痛みを耐えるのも俺は2~3時間が限度だった。慣れたら寝てることも多かったけど。しかし、彫り上がった後の喜びに今までの痛みも吹き飛んでしまうから不思議だ。痛みも度を超すと「痛快」という言葉が成り立つのである。

TATTOOには人間の本質に根ざす欲求が関係している、と書いた。欲求といえばセックスである。TATTOOもセックスと似ていると思う。金持ちも貧乏も、白人も黒人も黄色も、奴隷であっても、貴族であっても、セックスの時とTATTOOの痛みを受け入れている時は、自分が“ただの”人間であることを認めざるを得ないからだ。

どんなに痛くてもTATTOOをやり遂げようとする意志の向こうには、痛さを超える何かが存在している。この何かが欲望の究極のかたちであるセックスと関わりを持っていると思う。

究極の装飾であるTATTOOと欲望の究極のかたちであるセックス。TATTOOが人類の歴史上、何万年(?)も生き続けているのは、セックスと深い関係があるからだろう。そもそも痛みと快楽は裏腹なものなのだ。だからSMの世界が成り立つ。よく男よりも女の方が痛さに強いという。女は子供を産めるからだとか、脂肪が厚いからだとかいわれるが、要は女の方が欲望に忠実だからということだろうと思う。

TATTOOは言うまでもなく一生もんである。レーザー治療が進んだとはいえ、基本的に消すことはできない。TATTOOを認めたくない輩は、儒教的考えからそのことを攻撃の理由にあげる。しかし、TATTOOに限らず、人間の一生、全てが、一瞬、一瞬が一度しかないものである。ただ、それが残るか残らないかの違いだけである。その差はとっても大きいかもしれないが、痛みを受け入れてまで残す決意をするには大きな勇気がいるだろう。それだけ人生に対する責任も重くなるといえる。

TATTOOの魅力は尽きない。現代にあってTATTOOやピアスという「痛み」を受け入れた上での肉体装飾・改造の試みは何を意味するのか。

現代の人間は、常に何らかの管理システムに組み込まれて生きている。国家や企業、学校、社会、メディアなど、生きている限り逃れることはできない。そうした閉塞感あるシステムのなかにあって、人間は原始的な、根元的なものへの憧憬を忘れることができない。つまり、そうしたプリミティブなものとして自らの肉体を再認識する試みのひとつがTATTOOなのかもしれない。

TATTOOは、この地球上に人類が存在し続ける限り、なくなることは絶対ないだろう。

当然、熊本にもtattooショップはある(ヘタクソ)が、やっぱり東京に行きたいね。

ジジイになって今は弛んだと思う。☟


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。