「サド公爵夫人/わが友ヒットラー」

「サド侯爵夫人/わが友ヒットラー」三島由紀夫。2回目読了。戯曲は読みやすくてイイな。

「サド侯爵夫人」…猥褻犯罪で獄に繋がれた、ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド、通名マルキ・ド・サド侯爵を誠心誠意庇い、20年も待ち続けた貞淑な妻ルネだが、サド侯爵が自由の身になった途端、修道院に入り、離婚を決意する。
まあ、女の心変わりと言ってしまえばそれまでだけど、猥褻の限りを尽くしたサド侯爵と適切な距離を保つことで、自らの純潔と献身的な愛を維持してたんじゃないだろうか。現実に妻として身近なところでサド侯爵の世話を焼くようになったら、その崇高な純潔も愛も生活臭にまみれた凡庸なものとして、堕してしまうことを恐れたんじゃないだろうか。わかる気がするよ。

昔、澁澤龍彦氏の本でサド侯爵を知って、桃源社?か何かから出てたサド全集を古本屋で探し、片っ端から、興奮して(あっちの意味じゃないよ)、読んだのを思い出した。「人間のやることは、美徳も、悪徳も、全ては自然のことである」というサド侯爵の思想に深く感化されたものだ。マゾッホ(毛皮のビーナス)はイマイチだったけど。また読んでみようかなぁ。

「わが友ヒットラー」…キモは、「アドルフ、君は左を斬り、返す刀で右を斬ったのだ」「そうです。政治は中道を行かねばなりません」ーーこれに尽きるな。
親しい友人だった、跳ね上がりの突撃隊のレームと、革命を企んだシュトラッサーを同時に一夜にして粛正し、政権を維持する。
本来、政治とは、「極」を廃し、情に流されることなく、情勢に左右されることなく、粛々と仕事を実行していく、そして、保守中道で国民を欺く、こういうものかもしれない。

ヒットラーを描くことは、近代文明の本質に繋がったり、人間の裏の暗黒面を垣間見ることだったりする。さすがは三島先生、マジ天才だよなぁ。俺は、善悪は抜きにして、実はヒットラーは好きな方なんだが、三島先生も、好きかどうかは別にして、多大な興味を持ってたことは間違いないだろう。ヒットラーは独裁者として祭り上げられ頂点に上り詰めたが、あの時代を象徴するようにトコトン暗いね。悪の突き抜けた明るさを全く感じない。関係ないけど。

この2作品は戯曲だから、演者が舞台でこんなに長いセリフを覚えて演じるんだよねー。スゲーなあ。
特に三島先生は、文章一字一句が三島美学に繋がってくるから、間違えられないだろうし。
例えば、大まかなストーリーは決めといて、あとは演者のアドリブ力に任せるという芝居はどうだろうか。演者の力量が試されるだろうし、上演の度にセリフも変わってくるだろう。舞台は緊張感MAXで面白いと思うが。

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脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。