「遺体」

著者のルポルタージュは、他にもいくつか読んだことがある。

東日本大地震による津波で大きな被害を出した岩手県釜石市での、遺体安置所における人々の壮絶な記録だ。

多くのメディアでは、表面的な被害の報道しかなされないけど、現場である臨時の遺体安置所となった学校の体育館には、無数の遺体が所狭しと置かれていたのだ。

毛布等がかけられているものの、端から肌の色が変わってる手脚がはみ出していたり、大きさから子供の遺体とわかったり、毛布を取ると、お腹の大きい若い妊婦の遺体だったり…。

1万6000人もの人間が犠牲者(いまだ行方不明者は2500人を超える)となってるから、津波の跡をちょっと歩けば遺体が見つかるような状況だったのだろう。

地元の警察官や役所の人々、消防団員、そして、医師が遺体を体育館に集めて、それぞれ身元確認に奮闘する。

すでに死後硬直が始まっているけど、確認のために数人で手脚を引っ張って真っ直ぐにする。医師は無理矢理にでも口をこじ開けて歯型を調べて、死亡診断書を作成する。口の中には泥が詰まってて窒息死したことがわかる。多くの無残な遺体と真正面から向き合った人々の、それぞれの思いが詰まってる本だった。

遺体が多すぎて、一人一人、保管して通夜、荼毘に付して、葬式をあげるわけにはいかずに、どうしても早い処理をせざるを得ないけど、残された身内は、「少しの時間でいいから、ウチのだけは…」と涙ながらに特別扱いを懇願する。

遺族に寄り添い話を聞いて、遺体にも一人一人、「冷たかったでしょう。もう大丈夫だから。ゆっくり休んで」などと話しかける医者もいた。

当たり前だけど、どんな形であれ、人間は必ず死ぬのだ。

そして、まだ生きている人間は、その死を隠すことなく、ダイレクトに全てを見ておいた方が良いと思う。そこに、生きることに対する賛美も、死んだ人に対する尊厳も生まれてくるだろう。

死を忌み嫌うものとして隠してしまうことには反対だ。死を知った上での嫌悪だったらまだ良い。

死を知らないが故の、様々な“欠如”も多く発生してると思うね。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。