「死刑」

この本を読み終えて、ちょっと怖い感じがした。

こうしてる間にも、塀の中では吊るされようと待ってる人間がいて、全て秘密裏に事が進み、執行しましたという結果だけがメディアによって知らされる。死を直接イメージできる戦場などだったらわかるが、清潔に整えられたガラス張りの部屋がある刑場で首を吊るされ、死ななきゃ刑務官が下で縛られた脚を引っ張る。粛々と、人間味のない、ただ機械的にシステムとして人殺しが実行されていく…。イスラム国の首チョンパとは違う、この現代日本で、隠されてるけど確実に実行されてることだ。

森達也さんの結論は、前に読んだ本「オカルト」と同様、はっきりとはしないのだが、「死なせたくない、救いたい、殺すことも殺されることも嫌だ、僕は人に絶望したくない、生きる価値のない人など認めない、きっとあなたは共有はできないだろう」ということだ。俺もだいたい賛同できる。

日本は多分、今じゃ、マスコミのおかげで体感治安が悪くなってるし、オウムの件もあったし、90%近くの国民が死刑存置の意見だろうと思う。俺は、だいたい真理はマイノリティにあると思ってるので、死刑存置にはやっぱり疑問だね。

初めて死刑を意識したのは、若い頃、三号くらいで終わってしまったマニアックなパンク雑誌「punk on wave 」の、ギズムの横山サケビ氏による刑務官か誰かのインタビューだったと思うが(死が特集のこの雑誌は素晴らしかった)、以来、殺人関連の本とともに死刑に関する本にも触れてきたつもり。

中でも反骨の弁護士、故・遠藤誠氏に関する本にあった死刑廃止論が最も納得できた。現代はリベンジじゃなく教育刑、死刑制度存置と犯罪発生率は無関係、被害者側が置き去りにされてるーの3つが理由だが、俺も基本的にそう思う。

死刑存置論で、必ずステレオタイプのように言われる「被害者のことを考えれば、やむを得ない」「お前の身内が殺されたらどうする」という話には少しウンザリだ。被害者を一方的に慮った激情的な感情論に逃げることで、加害者の犯した罪そのものに正面から向き合わず逃げている気がするからだ。特に、ほとんどが直接関係のないことだからこそ、被害者も加害者も、命そのものに向き合って、命に想いを馳せることはできないものかと勝手に思うけど。凶悪犯なんだから、さっさと殺しちゃえ!じゃあ何の解明にもならないんじゃないか。

死刑自体は、上の役所からハンコが押された書類が届き、それに従って、いきなり執行日の朝に刑場に連れて行かれ、機械的にシステムのように吊るされるのだが、それを支えてるのが表向きには、はっきりとしない国民感情ってのも不思議な感じがする。

もし、俺の大切な人が殺されたら…現実的じゃないし、わからないね。よく我が手で犯人を殺すというが、米国ではそういう例があるが、日本では今までも例がないしムリだろう。それでも死刑制度は、単なる感情論でなく、法律として考えなきゃいけないだろう。

根強く残る応報感情を考慮するとしても、やはり被害者遺族が置き去りにされてるように思う。結果、国家権力による殺人といっても過言ではないだろう。監獄法は明治から変わってないし。実際に執行を行う刑務官のストレスも相当らしい。外国の宗教とは違うのだ。今の死刑制度は不備が多過ぎると思うが、死を扱うことなのでタブーの部分が多く、まだまだ触れる事ができない領域にあるようだ。

この本にも出てるが、中には、人を殺めたからこそ命の重みがわかって、神や仏のようになった死刑囚もいるという。これも公にされてないが、元警察官僚の証言で、疑惑の執行や冤罪もあるみたいだ。

日本の特徴の一つとして、制度に則って施行する結果よりも制度そのものを重要視する傾向と、上には逆らわない、いわゆるお役所仕事がある。死刑制度にもそれは如実に表れている。

俺が死刑制度について考えたからってどうなるものでもないが、せっかくこういう本を読んだのだから、自問自答したいね。

「死刑には、罪を犯そうとする人を抑止する効果はなく、残酷な行為の手本を社会に与えるだけだ 」ーー18世紀のイタリア貴族、チェザーレ・ベッカリーアによる世界初の死刑廃止論。

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脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。