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逃避行 第五章


ガチャンと自室のドアを閉め、情けなく座り込む。0:23。美人な女を「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と形容することがあるが、今の私を表すなら「萎れた菊」といったところだろう。

あの後、私はたんまり父親に詰められた。

言われたことは大まかにこうだ。

「最近はなにをしているんだ?今のつぐみみたいな生活をなんて言うか知っているか?その日暮らしと言うんだよ」
「そもそも、鬱なんて気の持ちようなんだから。病院に行ったって薬飲んだって仕方がないの」
「もっと普通に生活できるんじゃないのか、今日みたいに遊べるんだから。教材の入ったリュック、今日持っていっていなかっただろう。全部知っているんだよ」
「お前みたいなのをダメ人間って言うんだ」
「もう働いている子達だっているだろう」
「なんでもっと必死に生きられないんだ。弟に恥ずかしい生き方じゃないのか」
「いつもそうやって屁理屈ばかり捏ねて、特になにも出来ないままで。つぐみの言ってることは、所詮全部言葉遊びなんだよ」


全てその通りだった。言い返す言葉も出ては来ず、そしてその必要もなく、父の前では黙り込むばかりだった。私の言葉は屁理屈で、鬱は気の持ちようだ。そんなこと私が1番わかっていた。わかっていて対処ができなかった。19にもなって、親の脛を齧ってその日暮らしを続けていた。本当に情けない話だ。必死さに欠けているのもその通りだ。親の顔に泥を塗っている娘で間違いない。何も間違いないのだ。

ただ項垂れていると視界が潤み、体が火照るのを感じた。父親の手前必死に耐えたものが独りになった途端に溢れる。言いたかったことや、率直に思ったこと、罪悪感や感謝や自責の全てが。それらがひとしきり流れたあと、1番大きなものが奥底から流れ出してきて、今にも全てを薙ぎ払おうとしていた。希死念慮だった。



心臓の奥が握り潰され、つい視界が潤む。なんとか張力を保っていたのに、ぽろりと一粒だけ落ちてしまった。大声をあげて泣くことはできない。隣の部屋には家族もいる。そもそもその気力も今、ない。少しずつ絞り出すように吐いていた息はとうとう過呼吸気味になり、机の上に無造作に置かれた頓服薬のパッケージを引きちぎる。飲み物もなしに咄嗟に口の中に流し込む。残基は2個。体力故に、もう病院だって行けやしないのに。いつもの倍、さらにその倍ほどに思考が回り始めた。ほぼパニックだ。布団に潜ると、ダムが決壊したようにぼたぼたと涙が落ちた。枕の色がワントーン落ちていく。記憶のダムも決壊したのだろうか、色々な記憶が雪崩になって襲ってくる。

嗚呼、そうだ、そうだった。私が初めて寝られなくなったのは中三であった。思考癖が悪化したのもこの頃だ。長らく忘れてしまっていた。父親との関係の悪化が原因だったのだ。父親が部屋をノックするのが怖くて、眠れなくなった。トイレへ向かう足音やお隣さんの音だけで起きてしまうようになった。いつでも起きているふりをできるように睡眠が浅くなり、説教を早く終わらせるために頭は回るようになった。親を拒絶したり、ここから避難をすることも未成年のうちは可能であった。しかし愛が邪魔をした。私にとってはもう、たった一人の親だった。どんなに怖くても、理不尽だと思っても、彼と離れることを考えたなら自然と涙が出てきた。どんなに怒られても、好きになれないところがあっても、時折弟と共に抱き寄せられて愛してると言われたら全て許せてしまった。嫌いになんてなることができなかった。大好きだった。毎日仕事に向かう社会人としての強さが、家で見せる父親としての姿が、時折見せる頼りなさが、頻繁に覗く愛情が、どうしようもなく切なくて愛おしかった。それが多少不器用で歪んでいたとしても。もし私のことを好きではなかったとしても変わりやしない愛だった。嫌いになれないが故にずっとずっと苦しかった。親が呪いなのではない。愛こそが呪いだった。


片っ端から電話をかける。助けて、と思うよりも、声に出すよりも、今はこれしか選択肢が残されていなかった。ホットラインは全て時間外か接続不良。警察には頼ることができない。親を警察に突き出したいわけではない、この生活も、自分の心も、何物にも代え難く大事なのだ。体が何度も大きく震える。押さえ込む。必死になって連絡先を当たるが、誰も出ない。今は0:50、時間も時間だ。嗚呼、朝になったら着信履歴を見て後悔するのだろうな。でも今は、今だけは、こうしないと、死んでしまう。息が荒い。死にたくないだなんていうのは嘘だ。しかし身体の死より先に精神の死がくるのは耐えられなかった。どうしよう、死ぬ。本気でそう思っている。息が荒い、吸いにくい、薬はいつ効くのだ。プラシーボでも構わない。効いてくれ、はやく、はやく、はやく。

震える指が止まった。目の前にあるのはハルちゃんの連絡先だった。

…どうしよう、駄目だよな。崖っぷちの理性がそう言ってくれた。せっかく築けた関係をこんなことで壊してたまるものか。いや、でも。

「なんかあっても、なんもなくても」

彼女の言葉が思い出された。頭の側面から側面を幾度も跳ね返った。一瞬、水の中にいるように思った。深呼吸をする。吐く息が強く震える。
私、頼っても、いいのかもしれない。ワンクッションだけ置こうと、震える指で文字を打ち始めた。

「ハルちゃん、ごめんなさい。今電話できたりしないかな」
0:53。かなり迷惑をかけている。でも彼女の話によるとまだ起きているはずなのだ。お願いだ、お願い、今回だけ。もう無理なんだ、頼むから、神様。柄にもなく情けなく、神を思った。嗚呼神様。

既読がついた。

「つぐみちゃん!」
「どうしたの!?」
「いいよ、いつでもかけて」

嗚呼神様はいたらしい。また一滴涙が溢れた。ずずっと鼻を啜り、息を一度吐く。震える。大丈夫。「ハルと音声通話を開始しますか」___「はい」

タタタ、タタタ、タタ、
「どうしたの?!えっ、泣いてる?!泣かないで!」

ハルちゃんだ。安堵するとどうにかなってしまいそうで、気張らなくてはいけなかった。全く追いつかなくて涙を大量にこぼしながら、誤魔化しようのない鼻声を懸命に作って、話し出した。何度も謝りながら。父親と少し空気が悪いこと、今日も怒られてしまったこと、夢見が悪いこと。もう辛くてどうしようもないこと…死んでしまいたいこと。
ハルちゃんは今回も慎重に聞き、うんうんと相槌を打ってくれた。丁寧に創られた沈黙がこの上なくあたたかかった。自分でも何がどうなっているかよくわからないまま必死に語る。何度も同じ話をしてしまっているかもしれない。なんとかひとしきり話し終わって、今日は急にごめんねとなんとか振り絞り、締め括る。私が嗚咽を漏らしながら黙り込むと、彼女が満を辞して話し出した。

「うーん……つぐみちゃん、今日会おうか」
「…え?」
「8時でいい?どっか、遠いところ行こ。朝早く行って___終電でちゃんと帰る。美味しいものいっぱい食べて、観光して、行くとこ無くなったら__カフェとかでゆっくりして、可愛い写真たくさん撮って___何処がいい?大阪?」

私は呆気に取られてしまった。そんなこと、考えたこともなかった。

「どうせ、最後なら……新幹線に乗ってみたい。家族以外と乗ったことがないの。でも、大阪は少し遠いかも、日帰りなら」
「確かに!うーん…シズオカ…ってどう?」
「どうだろ。静岡か…小田原あたりかな」
「オ…ダ、ワラ、シズオカ…ふむ」

どうやら率先して調べてくれているらしい。何度もスマホ越しに独り言が聞こえた。

「オダワラにしよ!城も、海も、カフェもある!近い!東京からすぐ着く」
「うん………ねえ、私、帰ってこれないかもしれない」
「ううん、一緒に帰るよ、終電で」
「もし…一人で帰らせたら?」
「その時は一緒に泊まる!つぐみちゃん、帰るまであたしも帰らない!」

ハルちゃんの優しい笑い声が聞こえた。

「8時に、一緒に部屋出てー、9時の新幹線に乗ろう!シャワーは浴びたいけど…まだ4時間は寝れる!あたし寝るね」
「…うん、ありがとう、ごめん、ゆっくり寝てね」
「おやすみ!」

タタタン

通話が切れた。まだ私は呆然としていた。今は…2:58。ちょうど二時間ほど話してくれていたらしい。なるほど、確かにあと4時間くらいは寝られる。なにが「ゆっくり寝てね」だ、どう考えても彼女を十分に寝かせてあげるスケジュールではない。私自身も今寝てしまったら寝過ごすだろう。でもどうかハルちゃんはちょっとでも寝られていますように。

今日はもう疲れてしまって、飲み物を淹れる気も起きなかった。布団の中で身体を固める。足先は変わらず冷たい。布団に自分の体温が染み出していくのを根気強く待つ。しかし不思議と孤独に苛まれることはなく、過去に襲われることもなかった。息を整えて壁を見つめる。化粧と服はどうしようかな。寒いだろうから黒のダウンを着て行こうか。シミラールックにした方が良いのだろうか。嗚呼でも海が近いならマリンカラーが良い。何か良い服を持っていたっけ。目を伏せる。一時間したら化粧をはじめて、荷物をまとめよう。念の為、お金と、練炭、ロープを持って。

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