見出し画像

子どものころに感じた孤独を、受け止めてあげられる大人になりました

大人になってからも、なんとなく孤独を感じてしまうことがあったりします。何かの集まりに自分も参加したかったのに声かかからないとか、参加したいのに参加できなくなったりとか、さみしいというか、小学生みたいに言うのであれば、自分だけ入れない「仲間外れ感」を感じてしまう。

もちろん、仲間外れでもなんでもなくて、ほとんど自分の都合だったりします。他にも、単純に自分が告知をみていなかっただとか、地域的に近い人達が集まったんだなということが推測できたりして、本当は孤独を感じる必要は全くないのです。

でも感情だけでみると、悲しさが発生してしまっていて、恥ずかしながら、どうにも面倒くさいことになってしまう時が、たまにきてしまいます。

これは私の勝手な考えなのだけど、この孤独のたぶん3/4くらい……もしかするとほとんどは、幼いころに感じていた”さみしさ”が浮上してきてしまっているだけなのではないかな。

どういうことかというと、たとえば、私は小学4年生のときに、千葉から新潟に転校しました。4月になり学校が始まったときに、同じクラスの子が近くに住んでいるとわかって、朝の登校時は同じくらいの時間に家を出て、家の目の前にある急な坂を下りてすぐの道で、その子と合流して学校に行っていたんです。

でも始業式から1週間くらいたったある日、いつもの時間になってもその子がこない。「遅刻かな?寝坊かな?」って思って、とにかく待って、それでもこなくて、不安で悲しくて、通り過ぎる小学生たちに変な目でみられていないか気にしながら、待っていました。

遅刻ギリギリまで待って学校にいくと、その子はもうクラスの中で笑いあっていて、とてつもないさみしさと孤独感に襲われたという記憶が残っています。

結果としてその子は部活の朝練がはじまったから、いつもより先に行っていただけだったし、正直、一緒にいく約束をしていたわけでもなかったので、それを言われなかっただけかもしれない(もしかしたら言ってくれていたのかもしれないけど、そのあたりの記憶は曖昧になっている。きっとそこはもう関係ないんだ)

あの時、その悲しみを私は誰かに話すことはなかったんです。外に出さずに、自分の中に封じ込めてしまった。見ないふりをして閉じ込めてしまった。

こんなことが小学校時代は何度もありました。

これは完全な私の感覚なのだけど、あの時と同じような孤独感を感じた瞬間に、ぶわっと小学校の時の感情が蘇ってきているのではないかと思っているのです。


「仲間外れ感」や「孤独感」を感じた時に、自分のなかの孤独な気持ちを追いかけてみると、なんとなく道端で一人、友達を待つ不安そうな顔をした少女が、私の中でまだ泣いているような気がします。

だから、そんな少女を自分の中で感じたら、まずはイメージの中で小さな女の子を抱きしめてあげている。「辛かったね。嫌だったね。泣いてもいいんだよ」ありったけの共感の言葉を投げかける。

小さな女の子は肩を震わせて泣き始める。私はさらに抱きしめる。受け止める。

するとつるっと孤独感はどこかに昇華していく。注意深くもう一度さがしてみるけれど、その少女も孤独感は消え去っている。(そして今起きた出来事への悲しい気持ちもきれいさっぱりなくなっている)やっぱりあの頃の、あの子の孤独が湧き上がってきていただけだったのかもしれない。

とはいえ、また来るんです。つるっと消えたと思っていたのに、同じような孤独を感じる場面がくると、毎回小さな私はむくっと湧き上がる。

きっともう、その感情は完全に消し去ることはできないくらい、自分の血肉になってしまっているのでしょう。

だから、一生お付き合いしたいと思います。小さなときはこの感情をどうしたらいいかわからず、無視して閉じ込めてしまった。だから、今度は見ないふりはしないし、ちゃんと受け止めてあげたい。

大人になった私は、子どものころに感情にちゃんと責任をはたしていける
いい大人になったみたいです。

いつか本当の意味で昇華できるといいけど、でも付き合いも相当長いので、どこまでもお付き合いしていきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?