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『梅壺物語』エピローグ

 「雨もあがって、よかったね・・・・・・」雲間から差し込む日の光に照らされて、緑の葉が輝く梅の古木を眺めながら桃は言った。その日は朝から雨だったが、この縁側に座って休んでいる間に、雨は上がって空も明るくなってきた。
 庭の梅の木は横に広く枝を伸ばした大樹で、何百年も前からそこにあったような堂々としたたたずまいであった。しかし梅の木の寿命は百年程度とのことなので、この木も最初に植えられたものから何代目かのものであるとのことだった。
 「ほんとう? でもそうやって、ずっと受け継がれてきたのも素敵なことよね」と桃は言う。「ほんとう?」と言うのは桃の口ぐせなのだが、ユウはその言葉のイントネーションを聞くのが好きで、つい顔がほころんでしまう。
 京都の北白川にあるこの尼寺を桃とユウが訪れたのは、「桃」の手紙の由来を調べている中で、その手紙が入っていた壺もまた多くの人たちの手によって受け継がれてきたことが分かったので、その由来となった地にも行ってみたいと思うようになったからだ。
 もともとこの時期の京都はオフシーズンであったが、この尼寺は拝観料をとって一般の観光客に公開するということをしていないので、山際の静かな昔ながらの住宅地のたたずまいにあった。ユウが事前に寺に訪問の連絡をしていたので、二人は副住職の出迎えを受けた。副住職は寺の案内をしながらその由緒について説明をした後、二人の質問にも丁寧に答えてくれた。副住職によると、この寺には歴史や陶磁器の愛好者が時折訪ねてくることはあるが、若い女性が訪ねてくることはめずらしいので、うれしくなったとのことであった。
 小一時間ほど副住職による応対を受けた後、外はまだ雨が降っていたので、少し休んでいくことを勧められた二人は、梅の木が植えられた庭をのぞむことができる本堂の縁側に案内された。座布団とお茶を用意してもらったので、それをいただいているうちに、雨も上がってきたのだった。
 梅の木をながめながら、二人はこの寺にまつわる女性たちの人生に思いをはせていた。女性たちが自分らしく生きることが困難な時代にあって、様々な厳しい運命にさらされながらも、彼女らが生きてきた思いが、この土地に残されているように感じられた。

 「私のひいおばあちゃんや、そのまたおばあちゃんたちも、生きていた時代には業の深い女と思われたんでしょうね」と桃は言った。これまで手紙と壺の由来を調べてきた中で、自分の先祖にあたる女性たちの数奇な運命の数々に触れることができた。「そう思うと、今の時代に生まれてきた私は幸せなのかな。まあ今でもいろいろあるけど」と言って、そこで桃は言葉を止めた。
 天真爛漫な印象の桃であったが、先日も仕事で嫌なことがあったようで、愚痴をこぼしていたのをユウは思い出した。ユウはそれを受けて何か言おうかと思ったが、せっかくこの美しい景色を見てくつろいでいるときに、嫌なことを思い出させるのもはばかられたので、そのままうなずくだけにした。
 「でもやっぱり私は、今の時代にうまれて良かったと思う」と桃はユウに向かって微笑みながら言った。「だってユウに出会うことができたんだもん」
 そう言われてユウはどきっとした。まるでプロポーズのような直接的な言葉を向けられて、思わずどぎまぎしてしまったが、桃は気にせず言葉を続けた。「もし違う時代に生まれていたら、私とユウが付き合うことは許されなかったかもしれないでしょう」
 確かにそうかもしれない、とユウは思った。今のこの時代が最良だとは思わないけど、自分らしく生きていくための可能性は、これまで二人が見てきた女性たちに比べると、よほど恵まれていると言えるだろう。

 二人は副住職に礼を言って、尼寺を後にした。雨に濡れた石段を下りていくと、眼下には少し霧がかかった京都の町が広がっていた。
 「この後は、お待ちかねの豆大福を買いに行かないとね」と、桃の頭の中はすでに次の目的でいっぱいのようだった。お目当ての豆大福の店は、加茂川と高野川が合流する地点、下鴨神社にほど近い出町柳の、昔ながらの商店街にある。この寺に来るときに乗ってきた市バスの5番の系統は出町柳を通らないので、銀閣寺前でバスを乗り継ぐか、あるいは少し歩いて一乗寺駅から叡山電鉄に乗れば出町柳まで一本だ。
 「じゃあ時間もたっぷりあるので、駅まで歩きましょう。ちんちん電車とか、レトロな乗り物に乗るの、私好きだし」と桃が言うので、二人は白川通を渡り、小さな商店街を駅に向かって歩き始めた。このときはまだ知る由もなかったが、この後二人は、出町柳の商店街で豆大福を買うために一時間の行列に並ぶこととなるのである。

【蛇足と注釈】

・ 梅の木の寿命は70〜100年といわれているが、伊達政宗が植えたと伝えられる宮城県指定文化財(天然記念物)「朝鮮ウメ」(仙台市若林区)は樹齢400年以上といわれている。

・ 「梅壺寺」は物語中では京都北白川に所在することとなっているが、モデルとした寺院はその少し北の一条寺にある「圓光寺」と「詩仙堂」である。いずれも一般公開されており、美しい庭を見ることができるが、梅の古木があるわけではない。

・ 二人が買いに行く豆大福は、京都出町柳にある銘店「ふたば」のもの。一時間待ちは普通、というほどの人気であるが、タイミングが良ければすぐに買えることもある。なお『FSS』第10巻のブラックスリーによる浮遊城襲撃のエピソードで、F・U・ログナーが激怒していたのは、このふたばの豆大福を食べそこなったからである。

・ 叡山電鉄一乗寺駅に向かうまでの小さな商店街は曼殊院道のことで、駅の西側には書店「恵文社」があるなど、昔ながらの学生街である。作者が学生時代を過ごした町でもある。

・ 「プロローグ」と「エピローグ」の二つのエピソードでは、文体上の仕掛けを施しているので、ちょっと違う読み方ができるようになっているが、ここで種明かしをするのは控えておきたいと思う。

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