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『梅壺物語』プロローグ

 「ユウ、いま片付けてるから、あと三分だけ待って」ドアの向こうから桃が答える声を聞きながら、ユウはアパートの廊下でしばし待ちぼうけすることとなった。駅に着いてからもショートメールを送っているのだが、ユウが桃の部屋に待たずに入れたことはこれまでない。
 ちょうど三分たってから、「ごめんね、いつも待たせて」と言う桃がドアを開けた。キャミソール一枚の格好で、化粧はしていない。そのかすかにそばかすが浮いた素肌が目に入り、桃の無防備さに少しどきっとしながらも、ユウは目をそらすように部屋の中に視線を移した。
 桃の部屋は、この築数十年はたっている木造アパートにある。間取りは六畳と四畳半の二部屋で、トイレとキッチンは共用だ。同じく共用のシャワールームがあるが、湯につかりたいなら徒歩一分の銭湯に行くこととなる。
 二部屋あるので一人暮らしには十分な広さがあるはずなのだが、四畳半の方はアトリエとして使っているので、作品とも材料とも道具とも判断がつかないものであふれている。アトリエというと聞こえは良いが、むしろ作業場という言葉の方が合っている雰囲気だ。
 六畳間の方も、やはり物が溢れていて、畳が見えている個所はわずかである。他人が見ればガラクタであるが、それらはこれまで桃が収集してきたものであり、桃にとっては一つ一つにこだわりがあるので、勝手に位置を変えたりすると怒りだすのである。部屋の端にはせんべい布団が畳まれているのだが、どうやら桃にとってはこれを広げてその上で寝るよりも、物の間にはさまって寝る方が落ち着くらしい。ただ感心することに、これだけ散らかっていても生ごみやペットボトルのたぐいは、きちんとゴミ箱の中におさめられている。
 この日は六畳間の真ん中に畳一枚分くらい片付けられた個所ができていて、真ん中に小さなちゃぶ台が置かれている。おそらくこの空間を準備するためにユウは三分間、廊下で待たされるのを余儀なくされたのだろう。ユウは、ここにくる途中の新宿駅で買ってきた春水堂のタピオカミルクティーが入ったビニール袋をちゃぶ台の上に置き、空いているスペースのうちのひとつに腰をおろした。
 桃も、ユウの反対側のスペースに腰をおろし、ビニール袋に入ったふたつのプラスチックカップのうちのひとつを取り出した。「いつもありがとう」と言いながら太いストローを蓋に突き立て、親指で押し込んだので、パツンという高い音が響いた。
 ユウが買ってきたのは氷なしのタピオカミルクティーだったので、少しぬるくなっていたが、桃は気にすることなく人差し指ほどの太さのあるストローでタピオカを吸い込むことに集中し始めている。ユウももうひとつのカップを取り出して、同じように飲み始めた。二人はこうした食に関しての好みの気が合う。桃は、氷入りだとミルクティーが薄くなるので嫌がり、ユウはあまり冷やしすぎるとミルクティーの風味が薄れてしまうと思っている。

 桃とユウが付き合い始めたのは一年ほど前である。桃は都内の郊外にある美大のニ年生、ユウは都心の私立大学の四年生で、共通の知人を通じて知り合い、すぐに意気投合して付き合うこととなった。桃は美大で不思議なものを作るのに熱中しつつ、不定期でイベントコンパニオンやモデルのアルバイトをしている。小柄ながら整ったスタイルと、誰にでも好かれる愛想の良い性格のため、クライアントからの依頼が途切れることはない。ユウは、恋人が水着のような姿で人前に立つことに少しばかり嫉妬心のような感情を覚えていたが、桃がやりたがっている仕事なので、あえてそれを否定するようなことを言うのは差し控えるようにしている。一方のユウは、早々に大手企業の内定を得ることができ、また卒業論文が必須でない学部にいるため、残りの大学生活は悠々自適で過ごす予定である。
 付き合い始めてニ、三か月した頃に、一度だけユウは桃に同棲しないかと提案したことがあったが、桃は即座にそれを却下した。それは桃のこのアパートが大学に通うのに便利なこと(実際、桃は自転車で大学に通学している)に加え、桃のアトリエと収集品のためのスペースを確保するのは都内では他に難しいためであった。しかし今では、同棲するよりもこうして時々おたがいを訪ねに行くくらいの距離感の方が心地良いのだと、ユウも思うようになっていた。

 「私の方でもあれから調べて、いろいろ分かってきたのよ」と、桃は部屋の隅にある壺を指差しながら言った。その壺は木箱の中に、緩衝材で包まれておさまっていた。この壺こそ、今回ユウがここに来た理由のひとつでもある。桃は、美大の図書館の分類シールが貼られた分厚い本を取り出し、ページをめくりながら、「えっへん、それでは教えてあげましょう」とわざとらしい口調で語り始めた。
 それによるとこの壺は「玲月焼」と呼ばれるもので、江戸時代後期に京都で作られたものらしい。今でもコレクターの間では人気があり、本物であれば高値がつくことも多いが、模倣品や贋作も多いのだという。以上は桃の大学の工芸工業デザイン学科にいる陶磁器の専門の教員に教えてもらった話なのであるが、その教員も「玲月焼」は専門外とのことで真贋までは分からなかったという。
 そもそもこの壺は、月に二回ほど東京国際フォーラムで開催される骨董市で桃が買ってきたものである。桃は制作の素材やヒントになるものを見繕うため、何度かこの骨董市に通っていたのだが、この時はこれまでほとんど関心を払うことのなかった陶磁器の出店で売られていたこの壺が目に留まり、気になって仕方なくなったのだ。値札には三万円と書かれていたが、店主と話しているうちに一万円でいいということになった。ちょうど財布に一万円札が入っていたので、桃は店主の気が変わらないうちに、その場で買い上げて持ち帰ったのであった。

 「ユウの方の話も聞かせて」と桃が言うので、ユウは書類が入ったA4サイズの封筒をかばんから取り出した。
 実はこの壺を持ち帰ってからあらためて見てみると、壺の中でカサカサと音がすることに気が付いた。壺の中を覗いてみると、小さな封筒が入っているのを見つけた。骨董市で見た時は気が付かなかったので、どうやら封筒は壺の内壁に貼りついた状態となっていたのが、持ち帰る時の振動ではがれたようであった。
 封筒の中には便箋が何枚か入っており、どうやら手紙のようであったが、ずいぶん昔の手紙のようで字は毛筆の達筆で書かれており、しかも一部は紙が黒ずんでしまっていたので、桃にはほとんど読むことができなかった。しかし手紙の差出人が、どうやら「桃」という名前のようであることは分かったので、同じ名前という偶然も相まって、ますます桃の興味が引かれた。
 封筒には切手も宛先もなかったので、おそらく手渡しされることを想定して書かれたものなのだろう。しかしなぜ壺の中に入っていたのか、そもそもこの手紙は書き手の「桃」から相手の手に渡ったのかどうなのか、手紙の内容が分かればその理由も分かるのではないかと思ったのである。
 桃はユウにそのことを相談すると、ユウはサークルの先輩の、大学院で日本史を専攻している人に聞いてみると答えた。日本史の専攻だときっとくずし字も読めるのではないかと思ったのである。
 ユウが持ってきた書類は、その先輩が翻刻(くずし字を活字化して読みやすくすること)してくれたものだった。紙が黒ずんで読めなくなっていたところは、赤外線カメラで撮影すると、字の部分が浮かび上がって読むことができるようになった。
 「ほんとう? 『科捜研』みたいね」と桃は感心した声をあげる。科捜研というのは、きっと沢口靖子が主演するテレビドラマのことを指しているのだろうが、桃の部屋にはテレビはないので、きっと一人暮らしをする前に実家で見ていたのだろう。
 ユウが持ってきた手紙の翻刻の分量はレポート用紙2枚分であったが、添付資料として赤外線カメラで撮影した写真が添えられていた。それによるとやはりこの手紙は「桃」という人物によって書かれたものであった。「桃」はある遊郭の娼妓で、そのなじみの客に宛てて書かれたものであることが分かった。「桃」はその客とは別の人物に身請けされ、嫁いでいくことになったとあり、その客に直接会って別れを告げることができなかったことを詫びる内容であることが分かった。

 「悲しいお話ね・・・・・・」桃はしみじみと言った。手紙の内容は分かったが、結局この手紙が相手の男の手元に渡って、そのあと壺の中にしまい込まれたのか、それとも書かれたあとそのまま壺の中にあって相手に読まれることはなかったのかは、依然として分からないままであった。
 ここで桃は何かを思い立った。そしてユウに、この手紙の差出人である「桃」と、その相手の男の行方について、調べ始めたいというのだ。
 「私、『探偵!ナイトスクープ』みたいに何か調査するのを、いちどやってみたかったのよね」と桃は無邪気そうに言った。ユウは苦笑したが、桃がいったん何かにこだわり始めたらとことんやりとげることを良く分かっていた。たぶん自分も何やらいろいろ調べものに駆り出されるのであろうことを予期しつつ、自分自身もこの小さな謎解きを楽しんでみたいと思うようになってきた。

【蛇足と注釈】

・ 桃の下宿は中央線の国分寺駅あたりにあることをイメージしている。

・ 「春水堂」はタピオカミルクティー発祥の店といわれている台湾の喫茶店チェーン。日本のタピオカブームの火付け役でもある。この物語の時期設定はタピオカがブームになり始める、2018年春くらいをイメージしている。

・ 桃の通う美大は武蔵野美術大学(東京都小平市)、ユウの通う私立大学は早稲田大学(東京都新宿区)をイメージしている。桃のアパートのある国分寺からは自転車でニ、三十分ほどかかるが、桃は国分寺界隈のサブカル的な雰囲気を好んで住んでいるのだろう。ユウは大学に近い高田馬場あたりのワンルームマンションに住んでいるようだ。

・ 東京国際フォーラムの地上広場では、毎月第一・第三日曜日に「大江戸骨董市」が開催されている。

・ 近赤外線は墨や一部のインクを透過するので、赤外線写真によって判読不能になった文字を読むことができる可能性がある。考古学では遺跡から出土した木簡に書かれた文字を判読するのに利用されている。『科捜研の女』に赤外線カメラが使われた場面が実際にあったのかどうかは不明だが、『探偵!ナイトスクープ』では、視聴者から持ち込まれた読めなくなった古い手紙(戦地から家族に宛てて送られた葉書)を奈良文化財研究所で赤外線カメラを用いて判読したという回(「レイテ島からのハガキ」2011年)が放送されたことがある。

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