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『梅壺物語』「梅の段」(あらすじ)

 東京のある繊維問屋の娘として生まれた梅子は、母親から厳しく躾けられて育った。幼い時から三味線や常磐津を習い、成長するにつれて近所でも評判の美少女と呼ばれるようになった。しかし母親による過剰なまでの束縛に、梅子は窮屈さと生き辛さを覚えていた。
 そうした梅子にとって、家の中で心を許せる相手は叔母であった。叔母は家業の経営の実質的な責任者であり、家長としての厳しい面も持っていたが、梅子に対しては優しく接していた。
 また梅子にとってもうひとつの心の安らぎは芝居であった。とりわけ川上音二郎の一座がアメリカとヨーロッパで公演をおこない、貞奴が女優として活躍したニュースを耳にしてからは、自分も女優になって舞台に立ちたいという欲求が高まっていった。しかしそうした夢が母親に受け入れられることはないことは梅子にも分かっていた。
 その頃には日本にも西欧の演劇の文化が入ってきて、俳優養成学校も設立されるようになった。梅子もひそかに願書を出し、試験と面接を受けたが、顔全体の印象が平坦で華やかさがないことを理由に入学を拒否された。このことに梅子は大きなショックを受け、自分の鼻が低いことにコンプレックスを覚えるようになる。そして当時、日本でもおこなわれるようになった美容整形手術に興味を持つようになった。
 そうした中、梅子にとって家の中の唯一の味方であった叔母が病気のためこの世を去った。そしてかねてより梅子の演劇への傾倒を快く思っていなかった母親は、梅子の縁談を進め始めた。このまま母親の思惑通りに物事が進むと、女優になる夢はもちろんのこと、自分は一生、母親の束縛から逃れられなくなると悟った梅子は、ついに家出を決意する。家を出る時、ただ叔母から受け継いだ壺だけを大切な形見として携えた。

 家出をしても頼るあてもなかった梅子は、なんとか横浜の芸妓置屋に芸妓として身を置くこととなり、源氏名「梅」と名乗るようになった。梅子はそこでしばらく年季奉公した後に、女優の道を目指すことを心に決めた。
 身元を保証する連判者がいなかったため梅子が手にすることができた前借金はそれほど多くはなかったが、梅子はその金を使って鼻を高くする美容整形手術を受けた。当初は首尾よくいったように思い、自分が理想とする外見を手に入れることができたと喜んでいたが、当時の手術は技術的に十分なものではなかった。そのため後に、鼻に入れた蝋が体温で溶けてずれたり、身体が拒否反応を起こして赤く腫れ上がったりするという後遺症が生じるようになった。当時の技術では一度入れた蝋を取り出すことも難しかったため、梅子は亡くなるまで後遺症に悩まされることとなる。
 芸妓としての梅子は、美人として人気も上々であったが、三味線が弾けるとはいえ他に特筆した座敷芸を持っているわけではなかったので、客の多くは梅子の芸ではなく身体を求めてきた。芸妓の世界では誰でも構わず身を売ることは「不見転(みずてん)」として戒められていたが、実際には一般的なことであり、また置屋も暗にこれを勧めていた。梅子も最初はそれが嫌であったが、手早く金を貯めて自由になることができたなら、女優の道も近くなると考え、客の欲求に応じていくこととなった。
 そうした中、なじみの客の一人からSという男を紹介される。Sはかつて自由民権運動に関わっていた壮士であったが、その時の仲間とのつながりで芝居や演劇にも顔が利くとのことであった。その時にはすでに年季明けを早めることができるほどの金を貯めていた梅子であったので、Sを身元引受人として芸妓の世界から足を洗った。

 Sのもとに身を寄せた梅子は、Sの紹介である劇団に所属することとなった。しかしその劇団は、建前では「近代的」「芸術的」な演劇を実践すると標榜しつつも、実際には理想ばかり高くて実のともなわないお粗末なものであった。また座長の男がしつこく梅子を誘惑してくるのも嫌であったが、このことをSに相談しても「劇団に馴染むために我慢しろ」とかえってけしかけられる始末であった。やがて座長と梅子の関係は他の団員の人間関係をもギクシャクさせはじめ、そうしたストレスも梅子を悩ませた。かたやSは「当然の権利を行使」するような態度で梅子の身体を求めてくるのも、梅子にとって腹立たしく嫌悪感を抱くものであった。こうして演劇に対する夢や期待はもはや梅子の中からまったく消え去ってしまった。

 劇団を辞め、演劇からも足を洗いたいと言う梅子に、Sは激昂して「今までお前にどれだけの金と時間をつぎ込んだと思っているのだ!」と言った。実際のSは、梅子の面倒を見ているというよりむしろヒモのような存在であったが、Sは強引に梅子を神戸の遊郭に売り渡してしまう。
 苦界に身を沈められた梅子であったが、そこで過ごす毎日は意外と落ち着いたものであった。もちろん毎日違う男たちの相手をするのは心身ともに疲れることであったが、これまでのようにSや座長らのしがらみの中で過ごすよりも、客の求めるまま身体を提供する娼妓としての生活の方が、梅子にとっては精神的に安定したものであった。遊郭で働き始めて一年ほどたった頃に、風の噂でSが別の恐喝事件で逮捕されたことを聞いたので、梅子はSが連判者となっている契約書を買い取って破棄したが、その後もしばらくは同じ店に立ち続けた。
 やがてなじみの一人であるKから身請けの話を持ちかけられる。梅子にとってKは特別な感情を抱く相手ではなかったが、Kから執拗に懇願されたため、ついにはKの妾となることを決意した。

 Kは大阪の料亭の主人で、梅子は名目上は住み込みの女中としてKの店で働くこととなったが、時おり人目を忍んで二人は店を離れて待合で逢瀬を重ねるという生活を送ることとなった。
 Kには変わった性癖があり、行為の途中に首を絞められることに性的な興奮を覚えるというものであった。行為の最後はいつも梅子がKの上に乗り、腰紐でKの首を絞めると、Kは絶頂に達するのであった。
 この日もいつものように腰紐でKの首を絞めると、Kは「そのまま締め殺してくれ」と言った。驚く梅子に、Kは「お前に殺されるなら本望だ」と言うので、梅子は冗談だと思ったが、Kは自分から腰紐に手をかけてさらに強く引くように促した。この時梅子の心に、このままKを殺してしまえば「重荷を降ろして楽になれる」という思いが浮かんだ。梅子がはっと正気に戻った時には、すでにKはこと切れていた。
 梅子はひそかに待合を抜け出し、料亭の自室に戻ると大切にしている壺だけを風呂敷に包んで携えた。その後、鉄道で神戸に向かい、旅館に数日間逗留していた。その間は活動写真(映画)を観たりして過ごしていたが、ついに警察が訪ねてきたので、抵抗することもなく大人しく逮捕された。
 梅子は殺人罪で起訴されたが、Kの特殊な性癖のことが証言として取り上げられたため、情事のさなかの過失致死と判断され、懲役5年の刑に服することとなった。しかし明治天皇の崩御にともなう恩赦によって減刑され、3年余りで釈放されることとなった。

 自由の身となった梅子であったが、身寄りもなく、他に身を助ける術もなかったので、ふたたび遊郭に身を置くこととなった。名古屋や福岡の遊郭を転々としたが、すでに娼妓としては年増となる歳に達していたので、次第に客層の悪い店に落ちていった。
 そうした中でたどり着いたのが東京の東端の遊郭であった。そこでは幸いなことに人情のある店主の店に身を置くことができた上に、ある青年と出会うことができたのが梅子にとっての慰めであった。その青年は梅子よりも年が若く、まだ学生の身分であったが、何度も梅子のもとに通ってくるので、梅子も次第に惹かれていった。
 ついには二人は将来を約束し合う仲となり、梅子もこの世界から足を洗って世間並みの所帯を持つことを夢見るようになった。しかし梅子はかつて自分が人を殺めてしまったという過去を青年に告白することは、どうしてもできなかった。
 そして別れは突然やってきた。ある日を境に、青年の消息はぱったりと途絶えてしまった。周りの者たちは、しょせんただの遊びであったとか、あるいは親に引き離されたのだとか、様々に噂したが、梅子は、秘密を告白しなかった報いを受けたのではないかと思い詰めた。そして自分が生きていく資格のない人間だと思うようになった。

 大切な壺を道連れに、梅子は橋から身を投げようと決意する。しかしすんでのところで通りかかった男に引き留められた。放心状態の梅子を男は自分の家に連れ帰って介抱した。ショックのあまり梅子は人事不省の状態となっていたが、3日目には意識を取り戻し、少しづつ話ができる状態へと回復していった。そして助けてくれた男に礼を述べるとともに、ここに至る経緯について問わず語りに打ち明けた。
 梅子はしばらく男の家で逗留させてもらい、心の平穏を取り戻していった。しかし男は、このまま梅子を東京に置いておくことは彼女のためにならないと考えた。そして梅子に、自分と所帯を持ち、自分の郷里の東北に移り住まないかと尋ねた。
 梅子にとってこの提案は驚きであった。男は梅子より少し年上に見えたが、その柔和な雰囲気はこれまで梅子が出会ったきたどんな男たちにも似ていなかった。ついこの前まで見ず知らずの他人であった男が、自分と所帯を持ち、さらに今の東京での仕事を手放して、ともに郷里に移り住みたいとまで言うのだ。さらには人を殺めた自分の過去を打ち明けたにもかかわらず、男は自分といっしょになってくれると言う。男の思いに触れた梅子は、自分の人生を男とともに歩みたいと思うようになった。

 男の両親はすでに他界しており、郷里には家も田畑もなかったが、東京での仕事で貯めた金を元手に、親戚から小さな家と畑を借りることができ、二人のつつましくも新しい生活が始まった。農作業などやったことのない梅子にとって、農家としての生活は四苦八苦の連続であったが、土にまみれて働いているうちに、梅子の心はますます平安なものとなっていった。やがて女の子を出産し、梅子はこれまで思い描くこともできなかった生活を手にすることとなった。
 しかし平穏な日々は突然、終わりを迎える。おりしも世界的に蔓延し、あわせて1億人以上の命を奪ったスペイン風邪のために、梅子はあえなくこの世を去った。梅子にとっては残された幼い娘のことが心残りで、夫に後の事を頼んだが、夫も後を追うようにスペイン風邪のために亡くなってしまった。みなしごとなった娘は、夫の親戚に引き取られて養育され、美しい娘へと成長していった。

【蛇足と注釈】

・ 梅子のモデルとなるのは、松井須磨子と阿部定という二人の人物である。

・ 松井須磨子(1886-1919)は新劇の女優で歌手。梅子の、俳優養成学校を受験して不合格になったことや、美容整形手術を受けて後遺症に苦しむようになったことは、須磨子のエピソードから採ったものである。須磨子は、愛人の島村抱月(1871-1918)がスペイン風邪で死去したのを受けて後追い自殺したが、梅子がスペイン風邪で亡くなるのもこれを受けたエピソードである。

・ 阿部定(1905-1992頃?)は「阿部定事件」で有名な人物で、その物語は大島渚監督の映画『愛のコリーダ』(1976)のモデルになるなど、そのセンセーショナルな内容から広く知られている。梅子が常磐津を習っていたことや、各地の遊郭を転々としたことは、定のエピソードから採ったものである。梅子がKを殺害するエピソードも、定の事件から採ったものであるが、「局所を切断する」というモチーフはあまりにオリジナルの印象が強いためあえて採らず、「窒息プレイ」の果てに起こった事件というプロットを借用した。なお「阿部定事件」と梅子の事件とでは、殺害の動機が異なっている。

・ 梅子が家を出る動機となったのは母親の存在であり、現代風にいうならこの母親は「毒親」ということになる。しかしこの母親にしても、その母親(すなわちお露)の束縛の元で育ち、家業を残すために結婚相手(婿)まで母親に決められるという、自由のない人生を送ってきたことは、斟酌すべきことである。

・ お露(すなわち梅子の祖母、表向きは叔母)は、家業の存続のために娘の人生を自分の思い通りにして、その自由意志を奪ってきたことを後悔しており、そのため孫娘にあたる梅子に優しく接したのだと思われる。壺を梅子に手渡したのも、そうした思いからであろう。

・ Sという人物は、もともと自由民権運動の壮士だったと語られているが、近代日本の演劇史においては、いわゆる「壮士芝居」もしくは「書生芝居」が新派の成立の由来となった。劇中でも言及されている川上音二郎(1864-1911)もこの流れから出てきた人物である。彼自身もともと福岡黒田藩士の出身で、頭山満(1855-1944)らを中心として結成された右翼団体「玄洋社」にも名を連ねている。

・ 梅子が逃亡中に通っていた映画館は、神戸新開地に1907年に開業した活動写真館「電気館」「日本館」のいずれかであろう。この頃から日本でも映画が盛んとなり始めた。

・ この時の恩赦は、明治天皇の御大葬を受けて1912年9月26日に実施されている。なお阿部定については1925年の紀元2600年式典にともなう恩赦を受けて減刑されている。

・ 梅子が自殺未遂を起こし、3日間人事不省になった後、回復するというエピソードは、新約聖書におけるイエス・キリストの復活を意識している。

・ 梅子の夫(すなわち桃の父親)となる男は、『梅壺物語』に登場する男性キャラクターとしてはめずらしく誠実な人物である。むろん彼が生まれ持ってそうした人物であった訳ではなく、彼なりの人生の過程を経た上でそのようになったのであるが、その物語は『梅壺物語』の本筋ではないのでここで語られることはないだろう。ただ一度は郷里を離れて、単身のまま東京で仕事(建築の設計に関する仕事、という裏設定)に就いているというのは、彼なりの事情があったということなのだろう。


 

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