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『梅壺の由来』(あらすじ)

【あらすじ】

 壇ノ浦の合戦で平家一門を滅ぼし、京都に凱旋した義経は英雄と讃えられたが、一方で鎌倉にいる頼朝からは疎まれ、次第に対立するようになる。義経が無断で朝廷から官位を得たことも、彼の立場を危うくした。
 そうした中、義経の元に鎌倉からの文が届く。義経に謀反の疑あり、というのだ。そして身の潔白を示すために、平時忠の娘であり、義経に嫁いだ京の君の首を打て、としたためられていた。
 京の君は身籠っていたために別邸で静養していたが、そこに義経の近臣である武蔵坊弁慶が使者として訪れる。そして頼朝から厳命が下ったことを京の君に伝え、暗に自害をすすめた後、いったん屋敷を後にした。
 それを聞いた京の君と、彼女のそばに仕えているおわさとしのぶの母娘は悲しみに暮れる。京の君と姉妹同様に育ったしのぶは、自分が身替りに自害し、その首を鎌倉に差し出すように言うが、母親のおわさはそれを承知せずに娘を押しとどめる。おわさが物語るには、自分が18年前に契って別れた男との間の子がしのぶであり、彼女を一目、父親に会わせるまでは死なせたくないという。そして別れた男と取り交わした、赤い振袖の片袖を見せるのである。
 その刹那、襖の向こうから突き出された太刀の切っ先がしのぶの身体を貫き、彼女は声を上げる間もなく絶命する。見ると血のしたたる太刀を手にした弁慶がそこに立っていた。
 弁慶は、自分こそ18年前におわさと契った男であると告白し、証拠の赤い振袖の片袖を見せるのである。それこそまさに、おわさが手にする片袖と対になるものであった。
 赤子の時ですら一度も泣かず、最期は立ったまま絶命したと言われる弁慶であるが、この時ばかりは大粒の涙を流しながら娘の首を打ち、それを抱えながら帰っていくのであった。

 その後、京の君とおわさは北白川の尼寺に密かに身を寄せ、寺の一角にしのぶの亡骸を葬った。しばらくすると亡骸を埋めた場所から梅の木が生えてきて、花を咲かせるようになった。その美しさから、この尼寺はいつしか梅坪寺(梅壺寺)と呼ばれるようになった。
 やがて尼寺の住職となった京の君は、夫である義経と、自分の身替わりとなったしのぶの菩提を弔いながら、戦乱で未亡人となったり孤児となったりした女性たちを引き取り、さらには夫から離縁されたり虐待されたりした女性たちを匿い、彼女らを助け支えることに人生を捧げた。共に出家したおわさも生涯にわたって京の君を支えた。そしてこの尼寺は、女性の「駆け込み寺」として広く知れ渡るようになった。しかし寺に来た時には身籠もっていたはずの京の君の子がどうなったのかについては、一切の記録は残されていない。

 時は流れて江戸時代となり、依然として「駆け込み寺」として名高い梅壺寺の住職となった玲月尼は、社会貢献の活動費を捻出するために、手作りの陶器の販売を始めた。素朴な味わいと、施された梅花の文様が特徴的なその陶器は「玲月焼」として評判となり、多くの人の手に渡って愛されることとなった。

【蛇足と注釈】

* 話の大筋は、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として有名な『御所桜堀川夜討』の「弁慶上使」の段を下敷きにしたものである。原作から大きく変更した点は、しのぶが自ら身替わりを申し出るという箇所である。ここには女性同士の友情、もしくは恋愛関係があったという設定も考えている。だからこそ、しのぶは死んだ後も梅の木に生まれ変わって、京の君と一緒にいたかったのだろう。

* 京の君のモデルとなっているのは、義経の正室である郷御前(1168-1189)。武蔵国の豪族、河越重頼の娘とされる。『御所桜堀川夜討』では「卿の君」の名で登場し、平時忠の娘とされているが、平時忠の娘の蕨姫(生没年不詳)も義経に嫁いでいるので、両者が混同されたものと思われる。なお本編では『御所桜堀川夜討』の卿の君の設定を引き継いでいる。

* 平時忠(1130?-1189)は「平家にあらずんば人にあらず」と述べた人物として有名であるが、自身は平家の嫡流ではなかったので、あるいは自身の境遇に対し逆説的に述べたものであったのかもしれない。壇ノ浦の合戦で平家一門が滅亡した時にも時忠は生き延び、その後京都に帰って、三種の神器のうち残された玉と鏡の引き渡しに携わったり、義経と交渉して平家の機密文書を引き取って処分したりするなど、戦後処理と政権移譲の任にあたった。この頃に娘(蕨姫=「京の君」)を義経に嫁がせたのだろう。悪役として描かれることの多い人物ではあるが、真相は、意外と有能な実務家であったのかもしれない。

* しのぶを埋葬した場所から梅の木が生えるというモチーフは、死体から植物(作物)が生まれるという死体化生神話の一種である。このモチーフは世界中の神話や民話に見ることができ、『花咲か爺』にも同様のモチーフが見られる。ポリネシアのトンガの神話には、王をもてなすために夫婦が自分の娘を殺し、その肉を調理して王に振る舞い(カニバリズムのモチーフ)、その娘の死体からカヴァ(コショウ科の植物で、その根をすり潰して溶かした飲料には麻酔効果がある)が生じたというものがある。

* 梅壺寺の住職となった玲月尼のモデルは、江戸時代の尼僧、大田垣蓮月(1791-1875)。蓮月は京都の岡崎などに庵を結び、陶芸により生計をたてた。自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は「蓮月焼」と呼ばれ、現在でもコレクターの間で人気を博している。蓮月が慈善活動を行ったというのも史実である。なお画家の富岡鉄斎は少年の頃に蓮月のもとに侍童として預けられ、その薫陶を受けた。

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