優しいことは良いことなのか
今日は「優しさ」について書きたいと思います。
僕は、結構真剣に世界平和になればいいなって望んでいる人間の一人なのですが。
平和の形には二つあると考えていて、一つは「分立」、もう一つは「修身」。
これがあれば、世界は平和になるんじゃないかと思っています。そして、そのために今日のテーマである優しさ(思いやり)というものが非常に大切なのだろうと思って、ある時から、できるだけ優しくあろう、みたいな感じで挑戦してきたのですが。実は、優しいということは本当に良いことなのか?ということに疑問を持つようになりました。
そのことを論じるために、まずは分立と修身から説明したいと思います。
分立
分立とは、別々に分け隔てること。
歴史で挙げると、例えば三国志の諸葛孔明が天下三分の計というのを打ち出しました。
当時、魏呉蜀の三ヶ国が国取合戦で争っていた。
三国には三国なりの天下統一の野望があり、それは個人が国を支配したいということよりも、天下が統一したら初めて争いがなくなり、天下泰平になるという考えのもと、争いを無くすための争いをしていた時代がある。
三国の野望は一つだったけど、その方向性やお互いの思想に違和感を持つ者が対立し合っていた。
そこで、諸葛孔明は天下を三つに分けて、お互いに干渉せずに国を統治すれば、平和になるではないかと考え、このような提案をした(と考えています)。
僕はこれは本当に最もだと思っていて。争いをなくすための争いは馬鹿みたいだし。結局世の中みんな分かり合えない中でやっていかないといけない。であれば、少なからず思想の近いものは固まって、相対するものとは干渉しない。そうすれば、お互いが平和の輪の中でやっていけるじゃないかと考えています。
これは宗教にも言えることで。人それぞれ自分の信仰がある。それを信じているだけでいいのに、なぜか、自分の考え(宗教)は正しい=相手の考え(自分からして異教徒)は正しくないという思考になり、それが過ぎれば相手を倒さないといけない、消さないといけないという考えに至り、争いになる。
しかし、ミクロで考えたときに、自分と全く1ミクロも相違なく思想が合致する人間などこの世にいるだろうか?
僕はいないと思う。それはお互いの教わってきた教育や育った環境の全てが複雑系として絡み合って一個人のマインドが作られるので、それが一緒になるなんてことはありえない。例え双子だとしても。
なので、人間というのは基本分かりえないのが前提だと思う。
そこを、意見が違うからといって、自分の正義を振りかざして相手を倒そうとするのは誤りである。
それが個人の規模であれば喧嘩であり、国の規模であれば戦争である。
なので、自分たちは自分たちの似通った思想の範囲で固まって輪になり、その内で生きればいいので、輪を超えて干渉しなければいいではないかと僕は思う。
しかしことがそう簡単でないのは、それではどういう輪で括るのかという問題がある。
それが国なのか、人種なのか、宗教なのか、思想なのか。しかし、それは互いに輪が重なり合っているのが今の世の中なので、同じ国の中に別々の宗教が存在するし、別々の宗教の中に別々の人種が存在する。
だから、この輪を作ること自体が難しい世の中になってしまっているのは事実である。
しかし、この輪の存在を認め、全ての人が輪の外に干渉しないようにすれば、争いは起きないと僕は考えています。
修身
修身斉家治国平天下
四書の一つ、大学の中に収められた一文です。
要は、平天下(世界平和)のためにはそれぞれの国が治っていないといけないし、それぞれの国が治るためには、それぞれの家が治っていないといけないし、それぞれの家が治るためには、それぞれ個人が修まっていないといけない。
超訳すると、世界平和は個人から、ということになります。
当然と言えば当然ですが、自分が乱れているのに、世界が平和になるわけがない。
だから、高尚遠大なことを言う前にやるべきは自分の修身から。
そのために必要なのは、家庭教育、学校教育、そこから生まれた自律心による修身。
人々がみんな修身すれば、修身したもの同士が争うことはなくなる。なぜなら争っていては世界平和にならないから。
よって自然にミクロでもマクロでも分立を心がけるようになる。お互いに自分の意見、相手の意見を尊重し合って、必要以上の干渉をしない、争いをしない世の中になる。
このことから、僕は分立と修身があれば、世界が平和になると考えています。
そして、そのために必要なのが、尊重をし合うという行為であり、思いやりの心なんだって至りました。
思いやりの心を持つためには、優しくある必要がある。優しい心を持たなければならないと。
優しいことは正解なのか
何を持って優しさとするか、は問題だと思います。
多分ここを理解していなかったのだと僕は思いますが。
今までは、争わないように、相手に優しくあるように、と単純に考えてやっていました。
ただ、そうすることで何が起きたか。
それは、相手が図に乗るということです。この人は怒らない人なんだ。どれだけ言ってもいいんだ。何をしたっていいんだ。と相手が勘違いしてしまうのです。
これは心理学でもすでに検証されているそうですが、人は自分の性格で相手に接する態度が決まるのではなく、相手の態度で相手に接する態度が決まる、そうです。
どういうことかというと、相手が例えばいつも何かに怯えているような、不安感を持って、大人しい態度だと、こちらは横柄に強気になってしまうそうです。
逆に相手がイケイケで強気だと、こちらは少し大人しくなってしまう。
人間関係には4つのマトリクスが存在し、自律型か依存型か、ポジティブかネガティブか。
人はこのどれかに属していて、誰かと関わる時、相手の属性を考えつつ、行動するのだそう。
なので、こちらが優しい(つまり大人しい)態度で接していると、相手はどんどん強気になる、ということが心理学で証明されているそうです。
相手がどんどん強気にきたら、何が起きるのか。優しい人間にも我慢のコップは存在します。当たり前ですが。
そして、強気にでた相手の言動によって傷つくことがある。それは水滴としてコップに溜まっていく。
コップが満たされるまでは優しくあり続けようとする。でも、いつの間にかコップに水が満帆になって、溢れた時、優しくしていた人の感情も爆発してしまう。
これはお互いにとって良いことではないですよね。
実は、昔出会った歌舞伎町でホストをしていた人にも同じようなことを言われました。笑
優しくあろうと努力しても、怒らない人と勘違いされて、何をしてもいいと思われて、色々傷つけられることがあると話した時、そのホストからこう言われました。
「それはトモが悪いよ」
そんな風に言われると思わなかったので驚いて続きを聞くと、
優しくしたり、怒らなければそういう人だと思われるのは当然で、一度そう認知してしまったら、人はなかなか態度を変えられないよ。だから、もし本当にトモが心から優しいとしても、壁は用意しておくべき。そうすることで、相手にこれ以上踏み入ってはいけないという領域を教えておかないと、誰でも土足で上がってくる。我慢にも限界があるから、いつか爆発して、関係が悪化してしまう。その結果はお互いにとって良くない。だから、壁を用意する、教えることは何にも悪いことではない、と俺は思う。
って。なるほどと思いました。そのホストの方。チャラチャラせず、常に自分の心と思考に純粋な人だったので、言われたことが本当にストンと腹に落ちました。
親しき中にも礼儀ありと言いますが、本当にそうなのだと思います。
いくら仲良くても、相手が心でどう思ってるか、感じてるかなんて、家族でも分かりません。
だから、最低限の礼節は必要なのだと思う。
でも、人というのは本能的に相手の態度で自分の態度を決めてしまうので、それがわかっているなら、手放しにただ優しくあり続けることは、実はお互いにとって良くないことなのかもしれない。
そう理解した時に、あえて壁を作ること、あえて優しさを捨てるようにマインドを変えました。
すると、人間関係も良好になったなって感じた瞬間がありました。そこには以前より少しお互いに見えない壁が発生し、距離は少し離れてしまったけど、でも自分が我慢したり、相手から傷つけられるような言動は少なくなった。
今まで近かった周囲の人と距離は少し離れたけど、多分、この方が平和だなって思いました。
相手がどう感じてるか、考えているか分かりませんが。。
でも、我慢して、コップを満帆して、爆発して、争いが生まれるよりは、その方がまだ良いのか?と思うこともあり。
ただ優しくしていることが本当に良いことなのか。まだまだ考える必要があるとも思っています。
↓↓↓3年半世界を旅した経験を電子書籍で出版もしています!↓↓↓
noteには旅の思い出の一部を簡単に綴っています。
良かったら本書の電子書籍もお読みいただけたら嬉しいです。
キンドルアンリミテッドの方は無料で読めます!
シリーズ5作まで出版中。現在最終章の南米編を執筆中!
※noteの方は思い出しながら書いているので、詳細が本書と違っていたりします。あくまでストーリーとしてお読みいただけたらと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?