望月友博の自己紹介。

はじめまして、望月友博(モチヅキトモヒロ)です。

初めてのnote記事、何を書こうかと思っていましたが、まずは自己紹介ということで、僕の生い立ちから、今までを書こうと思います。

僕の自己紹介・ざっくり版

乱暴な自己紹介をすると、
・会社経営者
・ブロガー
・デザイナー
・パティシエ/ショコラティエ
・元サウンドエンジニア(PA)
・平成元年生まれ
・何よりも食べることが好き
ブログ記事は200記事超
Adobe Illustratorチュートリアル動画配信者
といった感じです。

僕の自己紹介・詳細版

ここからは詳細な自己紹介をします。めちゃくちゃ長いです。

生い立ち

平成元年9月生まれ。記事を書いている時点で30歳。茨城県日立市生まれ。

両親はもともとどちらも静岡出身。茨城で生まれたけど、文化とか言葉とか、結構静岡の気質が割と強い。静岡と茨城のハイブリッド。

父親は地元電線メーカーの機械設計エンジニア、母は主婦、割となんでも手作りしちゃう人。趣味で始めたお菓子づくりが高じて、教室を始め、店を始め、今では社長に。

子供の頃から、パソコンやら機械やらが好きで、幼児向けのパソコン教室に連れて行かれた時には、釘付けになって、離れなかったらしい。
その気は今も変わらず残ってて、今でもパソコン一台あればいつまでも黙って遊んでられる。

小・中学生時代

小学生の頃、Win95が発売されて、富士通のFMV Deskpowerが96年に家にきた。
CPUは100~200Mhz、メモリは16MBとかそういう時代。
父親が仕事から帰ってきて、ゲームをしたりするのを眺めてました。DOSベースのゲームは色々やった。
小学校高学年になると自分のPCを与えられ、家庭内LANで父と弟と3人でゲームで対戦したり。

習い事も結構色々やっていて、思い出せる限り書くと
・エレクトーン
・ピアノ
・ダンス
・習字
・水泳
・ギター
などなど。他にもあるような気がするけど覚えてない。
それぞれ期間はバラバラ、いつやってたかもバラバラ。

特筆すると、ギターは小学6年の誕生日にタカミネのアコースティックギターを買ってもらったことが発端。
ギターの先生ではなかったですが、友達のお母様がピアノの先生でギターも経験があるってことで教わってました。

中学時代。部活は吹奏楽部に入部、これもドラムが叩いてみたいというだけの理由で入部しました。3年では打楽器パートリーダーになるもほとんどサボり。
勉強はそんなにせず、数日おきの塾で覚えてあとは宿題するかしないか、あとはパソコンと遊ぶ毎日。
勉強も、楽譜も、数回みれば覚えられたんですよね。この頃。

受験も難なく地域の進学校に進学して「勉強しなくても入れたし、大丈夫」と思い込みさらに勉強をしない日々。

高校時代〜浪人生活

高校生活はいくつもの部活を掛け持ち。
・化学部
・物理部
・演劇部
・放送委員会(名前は委員会だけどほぼ部活)
・たまに生物部
めちゃくちゃ文化系の部活をやりまくる。

放送委員会で、NHKの全国大会に県予選を通過し出場。映像制作にのめり込んでました。
ここで、動画編集や音声編集のやり方をざっくりと学ぶ。

さあ、大学受験、となった時。
ほとんど勉強をせず、部活掛け持ち、パソコンとお友達な生活をしていたので、模試ではいつも希望の大学は圏外判定。
それでもなんとかなるや、と思って、そこそこに勉強して受けた結果、爆死。

1年間の浪人生活に突入する。

浪人生活は、地元、ではなく東京・池袋の河合塾に入塾。
河合塾の寮での生活。かけがえのない友達もでき、夜な夜な有刺鉄線を超え、電車に乗り、池袋で遊ぶ。

もちろん寮長にバレたりしたこともあって、怒られました。

大学受験・進学。人生の転機からどん底へ

浪人生活がほぼ終わりに差し掛かり、年が明けた、2009年1月。

センター試験直後に父親が倒れる。

その1月末に脳卒中で父親が他界。
失意の中、国立大、私立大の試験を受験。

2009年4月、ギリギリで受かった日本大学文理学部物理学科に入学。

父親の急逝のショックで、精神的にどん底。
入学した大学もほとんど通わず、最低限の授業だけを受け、引き篭もり1年を過ごす。

気分を晴らすために、軽音楽サークルに入部、サークル活動と最低限の授業と、バイトをする日々。あとはパソコンとお友達。

真っ暗闇の日々を過ごす。

弟が大学進学とともに上京、兄弟二人暮らし。

相変わらず僕は、そんなに学校も行ってなくて。1年次で取れた単位は8単位。進級はしたものの、2年次で合計14単位。留年がほぼ確定。
3年次にもとりあえず進級。でも授業は常に新入生と一緒。

耐えきれず、トータル2年半で大学を「自主卒業」と称し、退学。

「自主卒業」からパティシエ見習い生活へ

その後は生活をどうするか、ということもあって、とりあえず仕事を探す。

地元に残された母親は、冒頭にもちょっと書いたが、趣味でやっていたお菓子作りで教室をやっていて、父の急逝の後、実家の庭に10坪ほどの工房を建てて、小さな洋菓子店を創業。

自分の仕事は、もしかしたら、お菓子を将来引き継いでやるかもしれん。と思い、洋菓子店を探す。
その時、見つけたのが、国立のパティスリーICHIRIN。当時お店のシェフだった伊藤シェフ(現在は南大沢 メゾン ドゥースのオーナーシェフ)に惚れ込み、直談判してバイトとして入れてもらう。

2011年9月頃から見習い生活がスタート。家からは車で約40分くらいの距離。
2011年頃はちょっとしたスイーツブームで、毎日が忙しく作業も多くて大変な日々を過ごした。
バイトという立場だったので、先輩は6時頃出社でしたが、僕は8時出社。夜22時頃までの長時間労働。
・洗い場
・仕上げ、仕込み補助
・お店の販売スタッフ応援
が主な仕事。

とりあえず、順調にこなしてはいたが、父の死からの精神的な傷は癒えておらず、ハードワークと重なり、心療内科で診断書をもらい、2012年のバレンタインの頃、お店を辞める。

自分のやりたい仕事に挑戦・音響屋の道へ

自分がやってみたいこと、興味のあることを仕事にしよう。と考えるようになる。

お菓子も興味があったけど、ハードワークでダメだった。

他に何があるか。その頃の頭ん中はこのような具合。
・お菓子、じゃなくてもっと広く食に関わってみるか。
→大学時代にカフェ、バーテンダー、居酒屋を経験したし、もういいや。

・楽器でプレイヤーになりたい。
→食えるようになるのはいつになるかわからない
→ダメ。

・楽器のプレイヤーを支える裏方の仕事はどうか。
→高校・大学で音響かじってたしできそう。
→やってみよう。

というような感じで、音響機材のレンタル屋さんに就職。

エンドユーザーを主に対象とした、機材レンタルで、軽バンに機材を積み込み、全国どこへでも走り抜け、設置。
オペレーションはほぼなしで、設置・回収をするという、ルート配送のような仕事内容。
最長、武蔵中原駅に事務所があってそこから、長野県千曲あたり(記憶がおぼろげ、◯◯高原とかいう地名だったと思う)まで一人で行った。

夏には、毎週末、江ノ島水族館周辺の海の家にスピーカーを運び、ディスコのようになる海の家に通う。

1年くらい経った頃、一緒に働いていたメンバーが1人、2人とやめていき、連れるように自分も辞めた。

中堅音響会社への転職

その後、1ヶ月か2ヶ月か、ぼーっとしつつ、年始は実家に帰ってチョコを作ったりしながら、仕事探し。

もうちょっとステップアップできる会社を。。。と思って探す。

幾つか候補があったが、1件受ける。

ホテルやセミナーホールの施設管理・運営、ライブ音響などを手がける会社に就職。
このとき、募集の内容をよく読まずに応募した結果、本来は施設管理部門の採用案件だったのに面接で「自分はライブとかツアーとかそういうのがやりたいです」。の一点張り。

趣旨が違うからもう一回面接に。ということに。

2回目の面接は施設管理部門の部長、外回り部門の部長、社長の3対1。
会社が入るオフィスビルのラウンジでの面接。

面接をした後、ちょっと待っててねと、一人残されて、その場で採用、と言われた。
結果、ちょうど欠員が出ていた外周りチームでの採用になった。

再就職後、1年目はセミナーやちょっとしたライブイベントのアシスタントとして働く。学園祭ライブとか、メーカーの新商品発表会とか。
芸能人・有名人に間近で接する機会が増えて、それだけで楽しかった。

1年目から2年目になる頃、あるアーティストの北九州ツアーに帯同。
6公演くらいあったうち、中盤でヘマをこく。

曲間で演者のマイクを受け取ってはいけないところで受けてしまい、次の曲でマイクなしでステージに上げてしまうという大失態。
部長に叱られ、その日来ていた社長にも叱られ。

結果、他部署に配置換えに。島流し、みたいなもんでしたね。

転属先は都内の水族館。毎時あるショーの音出しオペレーターでした。
毎回同じことのルーティーンをしているだけの部署で、合間は割と自由。

この頃になると、そろそろ潮時かなと思い始め、合間の時間にビジネス書を読んだりして知識の溜め込みを始める。

水族館で1年が経とうとする頃、改装で閉館することになり、それを機に退職。

帰郷、そして会社設立・開業。

2015年1月3日を最後に水族館が改装のために閉館。

退職と年始の挨拶を会社にして、地元茨城県日立に帰郷。

10日ほどで、会社設立の書類を作成、揃えて1月28日に会社設立。

株式会社UMASOの取締役になった。

半年の準備期間を経て、母がやっていた洋菓子店を7月に移転、開業。

経営志向の僕と、現場志向の母(社長)、喧嘩までは行かないけど、言い合いをする日々。

現場はスタッフに任せ、経営にまつわる知識をつけなきゃ、との思いでまた店の事務所に引きこもり、パソコンとお友達。

小学生から経験のあったチラシ作りを生かし、お店で配るチラシや自分らの名刺、POPなどを自家制作するようになったのもこの時期から。

何からやったらいいかわからない経理を実践しながら学びつつ、チラシを作って、どうしようもなくなって事務所のパソコンの前で寝る_(┐「ε:)_。

スタッフに寝ているところを見られ、不信感を煽ってしまったり、何をしたらいいのか全くわからず2年ぐらいが過ぎる。

3年目〜4年目になると、厨房の中心的人物のスタッフが辞職することになり、どうしようもなくなって現場に入り、ケーキを作る。
開業当初から、こだわりがあって、ボンボンショコラを作って専用のショーケースに陳列。

結果、毎年シーズンには1万粒ほどのボンボンを作って売るようになった。
ほとんどを自分で仕込んで、夜中まで作ったりした。

開業特需の終焉、販促の重要性の気付き

3年目、4年目となると、お店を開店した時の目新しさ、というのもだいぶ薄れ、お客さんの視線も変わってくる。

そうすると、知らぬ間に客数は減り、売上は落ち、毎月の支払いをどうしようか、というようになる。

洋菓子店というのは超高原価、低単価というビジネスモデルとしては正直破綻しているビジネスモデル。

これをなんとかしようと、販促を学びに毎月東京へ通うようになる。

チラシ折り込みをしたり、フリーペーパー広告を出稿したり、現場よりもオフィス寄りの立ち回りになっていく。

広告投資は年間200万にもなり、やるだけやってみたが、売上はそんなに変わらなかった。結局経費が伸び、利益を圧迫するだけ。

この時、洋菓子店というビジネスモデルの限界に絶望する。

この頃から、ブログ「トモヒログ」を定期的に更新するようになる。

起死回生の!?土産菓子プロデュース

広告に投資しても回収しにくい、いや、できないビジネスならば何をしたらいいのか。

商品を広告にするしかない、という結論に至った。

地元の観光資源をイメージした商品を移転開業時からやっていたが、鳴かず飛ばずだった。

地域の住民からすると、否応無しに心の琴線に触れる商品であることは間違いないと分かって居たからやっていた商品をなんとかしたい。

そんな思いから商品のリニューアル、プロデュースを開始。

およそ1年がかりで、コンセプト設計、レシピ開発、パッケージデザインを行い、2019年4月に発売。

丁度、商品にまつわる小説を題材にした映画が公開を控えていて、期待感から発売するとともに、思った以上のペースで売れていく。ヒットの兆しを感じた。

6月に映画が公開、売れ行きは絶好調。
結果10月頃までの約6ヶ月で2万個超を販売するヒット商品になった。

洋菓子事業、事業譲渡へ

土産菓子のヒットとともに、経営面、体力面での大変さを痛感。

どうにかなっちゃうんじゃねえのか、って感じで。

「閉店しよう」と決断。

閉店の日時を決め、そのつもりで動き出す。
しかし、そのまま閉店するのは誰でもできるじゃん。

職人的視点、経営者的視点を考えて、経営者的視点から、M&A、事業譲渡をしようということに。
閉店を決めた日限までに譲渡できなければ、それはそれでいい。

結果、店舗を第三者に事業譲渡する。

現在は・・・

事業譲渡から1年、地域メディアを立ち上げてみたりしたもののうまくいかず。

店舗ビジネス、物販や起業準備中の方のお手伝いをさせていただいてます。

僕の今後は

会社の経営者として、ビジネスモデルの改善をしていくことを第一に考えています。

そのためのブログだったり、Youtube配信に取り組んでいるところです。


ここまででおよそ5000文字。

長々と読んでいただいてありがとうございました。
少しでも僕のことを知っていただければと思い、書きました。

今後とも、望月友博をよろしくお願いいたします。
twitter : @mochizo_

それでは。

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