アイスランド大失敗日記②(ロスト・パスポート)/長崎日々日記番外編
アクレイリへ
ホステルB47の朝食は1940円。
アイスランドの通貨Krは1Kr =0.98円なので、数字はほぼ日本の価格と同じ、この朝食も40~50円も引けば超正確。以下、細かいことは気にせず円表示する。
高すぎと思って食べないことにしていたが、市内のレストランやコンビニ、スーパーを前日5日に軽く回ってみて、この朝食代金がちっとも高すぎず、リーズナブルな値段であることを知る。
アイスランドの物価に、とにかく慣れていない。
コンビニで買ったパン食で、軽く済ませる。それもチョコ入りクロワッサン399円、ソーセージ入りパン299円(格安セールのロゴ入り)、ガス入りミネラルウォーター199円で、計897円(この日は1Kr =0.96円)。
この国の食料品には、やたら「9」の数字が多い。日本のスーパーで「8」が目立つのと同じ理由か。399は「400」じゃない、ということを少しでもアピールしたいんだろう。
にしても「オバQ」の世界じゃないんだから(ウケないか)。
市内中心部から郊外向けターミナルへ、乗り継ぐためのバスのナンバーを前日、ツーリスト会社の人からアドバイスされていたが、面倒だったので、レセプションに頼み、タクシーを呼んでもらう。
日本以外のたいていの国は、もう、タクシーをスマホで呼び出す配車アプリが一般化しているようだが、ここアイスランドではタクシー組合労組の力が強いのか、どうなんだろう? 配車アプリによる「革命」は、起きていない。
日本と同じ、流しを市内で見つけるか、電話で呼ぶ。ただ、電話コールは、へたすると「7台待ち」とか言われるという。
タクシーは電話が配車センターにつながるまで10分、マネジャーが告げて、5分できた。
市郊外向けバスセンターは「Mjodd」と書く(英語表記、正確なアイスランド語ではない)。
タクシーは飛ばす。料金メーター、がんがん、上がる。「またかよ」という気持ちになる。
結局4500円かかった。長崎の中心部の浜町から、自宅の北部・葉山まで3800円ぐらいじゃないか。そんな距離、絶対走ってない。
すべてが成り行き任せだ。
バスは午前9時発だが、すでに8時すぎの段階で数人、待ち人がいた。「アクレイリ行きですよね」とナンバー57のバス停で尋ねる。
「そうだよ」。こたえた若い男女は自転車に乗ってきていた。どうするんだろう? と思っていたら、バスの最後部に積めるようになっているのだった。
夏、ヨーロッパの若者は、自転車とテント泊で島をめぐるという。それが最も安上がりな旅だ、とガイドブックにあった。治安がいいから、できるワザでもある。
9時2分にバスは、約30人あまりを乗せて、走り出した。ツーリストと、地元の利用者がおよそ半分ずつぐらい。
窓から溶岩が転がる平原、草をはむ馬が見えてきた。ようやく「旅に出た」という気分がわきあがってくる。
いや、まだだ。
乗車前、大切なステップを踏んでいて、そこでもちょっとした”疑問”が生じていた。
60代後半に見えるベテラン運転手に、目指す「ゲストハウス ヒムナスヴァリル(Guesthouse Himnasvalir ) の地図を差し出して、「このゲストハウスに行きたい。アクレイリの町の前のバス停? どのバス停で降りたらいいか、教えてほしい」と告げた。
ドライバーは、地図を見て、かなり長く黙り込み考えていた。
また結果論になるが、これもおかしかったのだ。
アクレイリへの道を熟知しているはずのドライバーが悩むような、その立地にゲストハウスが存在するという、事実自体が怪しい。
しかし、ドライバーは「Varmahlid(英語、アイスランド語表記は異なる)」のチケットを切って、「ほれっ!」という感じでキャッシュレスカードの額を打って、サーキュレーターにカードを差し出すように、あごで命じた。
8300円を超えていた、と思う。
「あのう、それで、そのバス停に着いたとき、教えて………」
頼むことばも終わらないうちに「もう座れ」とばかり、腕を振り回される。
イラン旅行中、目的地のバス停を寝過ごし、気づいた周囲とドライバーが、わざわざ起こして、500メートル先で、急ストップかけてくれた過去とは、えらい違いだ。
しかし、その考えが、そもそも間違いなのだ。
日本人ツーリスト、親日国イランだから「特別扱いしてくれた」と言えるのかもしれない。
ここは、アイスランド、人種多様なヨーロッパなのだ。「アナタ、日本人? ツーリスト? だから?」
もちろん、アイスランドは観光の国。世界有数のホスピタリティあふれるところとして知られる。
ただ、若者はネイティブにそん色ない英語力だが、高齢者はそれほどではない、という。
ドライバーにとって、わたしの重なるマズい英語でのお願いは、「ウザい」以外の何ものでもなかっただろう。
「あのドライバー、かなり地図見て考え込んでいたな」
車窓越しに、また疑念が頭をよぎる。
しかし、まさに「漕ぎ出した船」。後戻りはできない。
バスはさほど広くもない片側1車線を制限速度いっぱい90キロ近くで、ばんばん走る。
4つ目ぐらいのバス停兼ステーションで、少し長い休憩に入った。
すぐ前の席にいた、20代らしい青年がわたしに質問してきた。
「いつまでいるの?」
「8月23日まで」
これはワタシの聞き取りミス。彼は「この休憩所で、どのぐらい停車するのか」という意味の英語をワタシに投げかけてきたのだった。
すぐに、自分の勘違いに気づき「少し長く、停車するのかな。ランチ、食べてもいいんじゃない?」「オレはカネないから、ランチは要らないけど。この国の食べ物、高すぎだよね」
青年は「ボクはスイス人。スイスも同じように高い」と言って、にっこり笑った。
写真で紹介したいぐらい、女子ウケするルックスだった。
彼は続けた。
「日本人?」
「そうだよ」
「日本、好きなんだ。鉄道、いっぱいあるよね」
「ボク、鉄ヲタなんだ」(これは当然、ワタシの超意訳。彼は『鉄道が好き』と言っただけ)
「いつか来るといいよ。いま、日本では『リニアモーターカー』という新しい高速鉄道が建設中なんだ。いつ完成するかわからないけど、君がくるときにはきっとできてるよ」
リニア建設反対派のくせに、こういうときだけ、日本人のハズいプライドが頭をもたげて、すらすら口をついて出てくる。
ランチは要らない、といったくせに、急に何か食べたくなってきた。
ステーションへ飛び込む。
冷蔵パスタのパックが目に入った。すぐ手にとってバスに引き返した。
これで1095円。
細めん。そうめんよりは、もちろん、太い。シーフードスパゲティ。
日本人、コンビニのスパゲティ弁当は必ず温める。
中国人が冷食のランチが嫌いなのはよく知られる。
ここはヨーロッパ、アイスランド。これ、通常スタイル。
味は悪くない。食感もいい。シーフードはエビ? あっという間にたいらげる。
バスの表示がついに「Varmahlid」になった。ここだ。ストップボタンを押す。時計の針は午後2時18分を指していた。
Varmahlidからの道のり
降りると、まず、日本によくある「道の駅」のような休憩所兼レストランが目に入る。近くに小さなホテルもあった。
しかし、目指すゲストハウスではない。
休憩所の一角でハンバーガーを売っていた若い男性に尋ねた。
地図を見せながら、「このゲストハウス、知りませんか」
男性の周りに数人が寄ってきて、あれこれと話し始めた。
そして、そのうちの一人が言った。
「ここ、こっから、すごく遠いよ」「自分のスマホ、持ってる?」「グーグルマップでリサーチしてみたら?」
Simを入れた二番手のスマホに「Guesthouse Himnasvalir 」の文字を入れる。「5時間35分」という数字が出た。歩いてかかる時間だ。
なんだ、バスのドライバーも適当にチケット切ったんだ、とわかったときにはすべてが遅かった。
周りを囲んでいた一人が言った。
「またバス待ちするしかないんじゃない?」
わたしは、休憩所前の駐車場に大型バスが一台止まっているのを目にしていた。
あのバスでいったん、アクレイリへ行き、そこからタクシーに乗ろう。
「あのう、あのバスの乗客のかたですか? なら、すみません、わたしも、アクレイリまで、乗せてもらえませんか。おカネは払います」
「いや、それ、だめ。ボクらはレイキャビクに戻る途中(逆方向)だから」
ハンバーグ販売中の男性がタクシー会社に電話してくれた。
残念ながら、早口の英語で聞き取れない。ただ「(配車するには)メールを送れ」と言っていることだけはわかった。
メールだなんて、アドレスもよく検索しようがないのに、どうしたらいいっていうんだ。
ハンバーガー男性は告げた。
「こうなったら、ヒッチハイクだね」
そうか。その手があった。確か、日本で見たサイトにアイスランドでは、ヒッチハイクがそれなりに通用する、と書いてあったのを見たぞ。
人生初だ。大げさな。しかし完全未体験ゾーン。
「Varmahlid」は、アクレイリへ向けの道路が交差するT字路になっていて、交通量はそれなりにあった。
アクレイリ方向の車はけっこう通る。
交差点そばのわきで、手を振り、親指をたて、必死で「止まって!」と訴える。
いや、違うでしょ。
ホスピタリティあふれる観光先進国アイスランドであっても、ザックを前後に背負った、イケメンの若い男の子でもない、初老アジア人を車に「どうぞ」と招き入れるほど、みな、お人よしではない。
車は次々に無視して走り去る。
「こうなったら、5時間半、歩き通してやるぞ」
そう決意、歩きだして、数歩、数十歩。
振り返ると、T字路を折れて、古い小型乗用車が走ってきた。
手を挙げて、また大げさに手を降ると、なんと、止まってくれるではないか!!!!!!
ドライバーは高齢男性ひとり。
「すみません、アクレイリに行ってます?」
「ああ。どうしたの?」
すかさず、地図を取り出して、「このゲストハウスまで行きたいんです。予約しているんです」とせき込むように言った。
「OK」。乗れ、と男性はうながした。
やっぱりアイスランド。いい国なんだ~! ヒッチハイク、案外簡単に決まって、やってみるもんだな。
「どこから」
「日本です」
「ああ、そう、アイスランドはいつから」
「おととい、4日にレイキャビクに着きました」
「そうかい。仕事は何か?」
「いえ、もうリタイヤです。ボランティアでフリーの日本語教師をしていますけど」
高齢男性はハンドルを握りながら、ちょっと後ろを向いて笑顔を見せた。
「オレも、英語の教師やってるんだ。ただ、小さい子たちのね。キミ、何歳?」
「62歳です」
「そうか。オレ、65歳。あと2年、67歳まで仕事を続けるつもりなんだ」
陽気な会話が続いた。わたしも彼のご機嫌をできるだけとりたい、という気持ちで懸命になっていた。
「日本のハルキ・ムラカミ、いるだろう。好きなんだ」
「あ、村上春樹ですね、知ってます! 日本の小説家の中では、世界で一番、有名ですよね」「アイスランドでも作品、売ってるんですね」
「ああ、読んだことあるかい?」
「はい、ほとんどの小説とエッセイ、読んでます」「彼、ノーベル賞、取れなくて」
「ハハハ、そうだな。そのうちとると思うよ」
会話に集中、ときを忘れる。
男性がスピードを緩めた。
「ところで、探しているゲストハウスはこのあたりだよな」
車はいったん、アクレイリに向かって、左方向の細い道に入ろうとした。
いや、その方向じゃない。直観的にわかった。
「すみません、このアクレイリに向かう直線をもっと行ったところだと思います。もう少し先です」
65歳男性はわたしのスマホをのぞき込んで納得したのか、車を戻した。
そしてさらに5分ぐらい、飛ばしただろうか。
手にしていたスマホのグーグルマップに目を落とすと、なんと、知らない間に、赤いマークの目的地から、通りすぎてしまっている。
「Please wait!!! Please!!!」
「What's?」
グーグルマップを見せて、「行き過ぎてるみたい」と告げる。
男性はUターンして、来た道を戻り、右手斜面に目を凝らしながら、ゆっくり走った。左手は幅100m以上はありそうな川だ。
ない。赤いマークが指し示す、その地点に来ているのに、ない。目的の「Guesthouse Himnasvalir 」。
今度は、また逆方向へ、車がグーグルマップの赤い印からどんどん離れていく。
「ほんとうにすみません。また行き過ぎたみたいです」
運転の男性は落ち着いた表情で言った。
「どういうことなんだろうね」
周囲を見渡ている途中、川向こうの遠くの緩斜面に小さな赤い屋根が見えていた。
ちょうど、グーグルマップがさす地点と一致しそうだ。
「どうも、川の向こう(指さしながら訴え)にあるようです。少し先の橋から、渡ってみてもらえませんか?」
わたしに言われるとおり、車は舗装されていない、木製の小さな橋を緩慢なスピードで進んだ。
グーグルマップを見つめていると、まさにその目標地点にたどりつこうとしている。
しかし、不安は消えなかった。
遠目に見ても、ゲストハウスらしい雰囲気のある建物ではなかったのだ。
その建物のゲートに着いた。
閉まっている。
どうも、人の気配がしない。
「ここにブッキングしたんだろ?」と車の男性。
「はい、そうです」
わたしは、気もそぞろに右ドアを開け、ザックをおろした。
「じゃあ」と、左ドアを開け、彼は片手を上げた。
「ありがとうございました」と、おじぎしながら、お礼を言った。
彼は名前を言った。よく聞き取れなかった。
わたしは「トモヒコです。トモと覚えてください」と返した。
ドアが閉まり、車は去った。
わたしは、ゲートを開けて、さらに、赤い屋根の、怪しい雰囲気いっぱいの、「目標」ゲストハウスに向かった。
グーグルマップは、きっちり、このポイントを指して、「到着」を決めつけていた。
最初のゲートから小さな砂利道の上り道、約200m。
玄関手前のゲートは空いていた。
玄関に立った。
明らかにすさんだ、廃墟があるだけだった。
それでも、ドアに手をかけてみる。
開かない。
左側の「裏口」に回る。
ドアは、びくともしない。
中を窓からのぞく。
いない。だれも、いない。
サイトに誘導されるまま、情報をしっかり確かめず、楽観視して行動してきた、その旅が破綻した一瞬だった。
さて。どうするか。
いったんザックを肩からおろし、冷静に考えようと努めた。
サイトに連絡して、クレカで支払った金額、全部返してもらわないと。
いや、問題はそんなことじゃない。
ここは、アイスランド、夏とはいえ、気温は長崎の冬と変わらないのだ。
夜は冷える。
死にはしないかもしれないが、悲惨な目に遭うことはわかりきっている。
とりあえず、アクレイリをもう一度目指そう。
またヒッチハイクしたら、なんとかなるかもしれない。
来た道を下る。
ちょうど、さっき通った橋を渡ってくるランドクルーザーがライトを点滅、遠くに見えた。
「ついてる! あの車に頼み込んで乗せてもらおう」
ランドクルーザーはしかし、わたしを避けるように、いったん、方向転換したあと、Uターンするかのような動きを見せた。
その時点で、わたしは手を振って、合図を送っていたから、「しまった! やりすぎちゃったかな?」と疑心暗鬼に陥った。
ランドクルーザーは止まった。
人が下りてきて、川原を歩いている。
わたしは無用な警戒を抱かせないようにと心がけながら、近づいていった。
そして、その車の運転手、70代すぎかと思われる、白眉、白髪、長身の男性のもとにたどりつくことができた。
釣り竿をワンセット、手にしていた。
「すみません、失礼します」「わたしは日本人です」「このあたりにゲストハウスがあると思ってやってきた旅行者なんですが、ないんです」
男性は「どこのゲストハウスか?」と少し厳しい目線を投げかけてきた。
わたしは手に提げていたナップザックを探った。プリントした地図を探して。
「パスポート、どうした?」
アッ!!!!!~~~~~~~~~~~ッッッッッ
ない。そんなはずは、ない。
地図を入れていたビニール製の透明パックキングバッグがない。
あれ、パスポートとデビットカード、クレジットカード2枚、それに現金、1500ドル以上も、入れていたのに。
いったい、どうしちゃったんだ?
わたしの動揺をよそに、白髪高齢男性はいぶかしげな顔を向け続けた。
「ごめんなさい」
頭を下げて、すぐ来た道を、再びあの廃墟のゲストハウスに向けて戻り始めた。
途中で落としたのではないか、と最初は考えたのだ。
しかし、よくよく振り返ると、さきほど、ここまで送ってくれた65歳男性の車を降りる直前、「そうだ、ここまで親切にしてくれたんだから、メルアド聞いて、あとでお礼のメールしようか」と考え、いったん、そのパッキングバッグをナップザックから取り出したことが、瞬時に頭に浮かんだ。
「そうこうしているうちにスマホ指示の目的地に着いて、慌ててドア開けて飛び出したんだっけ。彼の車の後部座席に置いたままにしちゃったんだ」
ロスト・パスポート。
ツーリストの恥。
いや、それ以上に、とたんに行動制限がかかって、身動きとれない。
落ち着け。
ひょっとしたら、廃墟ゲストハウス前のゲートに、こぼれ落ちたままになっているかもしれないじゃないか。
走る、というスピードではないが、これ以上、ここ何年も出したことがないというスピードで、ザックを担ぎながら、あえぐように早歩きをする。
車がストップ、わたしが下りた最初のゲート現場を探して、うろうろ。
ない。
廃墟先の玄関にメインのザックとナップザックも、いったん置いた。
確かめよう。
なかった。予想通り。
去ってしまった彼の車の、後部座席だ。あそこで取り出した記憶だけは、鮮明だった。
日本なら、落とし主がわからない財布を交番に届けてくれる人がいて、幸い見つかる、というケースは、それなりにある。
ここは日本じゃない。
いくら北欧、先進国の一角、アイスランドとはいえ、一度失くしたパスポート、カード、キャッシュが、この手に再び戻ってくる可能性は皆無、と考えるべきだった。
アクシデント。それも取り返しがつかない。
警察に行こう。アクレイリの警察に。
砂利道を4度目。
先ほど会った白髪高齢男性は、ランドクルーザーを川辺に止めたまま、付近を歩きまわっていた。
もう、あの人にすがるしかない。
再び、気だけは”全力疾走”の思いで歩く。
男性は、釣りをあきらめたのか、車に乗り込もうとしていた。
ここで逃すともう、あとがない。
必死でザックから伸ばせるだけ伸ばした手を、ランドクルーザーに向かって、振りまわす。
ランドクルーザーは、方向転換のハンドルを切るかに見えたが、ジグザグ走行した末、ついに止まって、くれた。
「また、すみません。やっぱりゲストハウスはないんです。おまけに、パスポートも失くしてしまって」
息も絶え絶え、のていだったと思う。大げさでなく。
白髪男性はこともなげに静かに話した。
「あっちに見える家か? あのゲストハウスは去年、クローズしたままだ」
「ウェブでは予約できたんです。どうしたらいいでしょう?」
「わたしの車に乗りなさい」と白髪男性は言った。
助かった。後部ドアを開け、ザックを放り、助手席に乗り込んだ。ちょっと図々しさがすぎるかという気もしたが、こういうとき、遠慮なんて、すっとんでしまう。
わたしは、懇願した。
「アクレイリに行きたいんです。パスポート失くしたことを警察署に言わないと。お願いです、アクレイリに連れていってもらえませんか」
白髪男性は「ノー、断る」と即答した。
「ここからアクレイリは遠すぎる。わたしは近くの自宅に帰る」
そこをなんとか、できないでしょうか、という意味の英語を自分でも何言ってるかわからないぐらいの感じで、たぶん繰り返したと思う。
「すぐ先の道路まで(橋を渡って)連れていく。きみはそこからバスでアクレイリに行きなさい」
白髪男性の固い意志は、動かしようもなかった。
当然といえば、当然か。
ゲストハウスは去年閉鎖、この事実を地元の人から直接聞いた、という証言が得られただけでも、幸運というべきだ。
仮にも新聞社員の履歴があるわけだから、廃墟ゲストハウスの証拠写真、あとで偽情報つかませてくれたサイトに交渉するときのために、しっかり撮る、という行動は、最低あってしかるべきではあった。
「使えないヤツ」と、デスクからディスられた記憶がよぎる。
小さなこと、ひとつ、ひとつにすぐ動転、ミスを連発する癖、治らないな、一生。
いやいや、そんな余裕と、気をつける能力あったら、そもそも、こんな粗忽な失敗、しないだろう。
アクレイリに向かうバス停が、さっき65歳男性と行きつ、戻りつした片側一車線の道路に「ない」ことは、わかっていた。もし、ほんとうにバスでアクレイリに向かうなら、当初の出発点「Varmahlid」まで、戻らないといけない。
それは「非生産的」にしか、感じられなかった。後退するみたいで。
ランドクルーザーを降り、アクレイリの湾へ流れ下る川沿いに、その
「田舎の高速道」を歩くことにする。
いや、なんだ、これがどうした。
強がってみる。
あきらめないぞ。
大学時代は、山岳部(劣等生だけど)。
ザック担いで、夜の山道、歩き通すわけじゃない。
アイスランドは、都合のいいことに、いま、白夜だ。
完全に暗くなって、道に迷うことなんてない。
冬の八甲田山じゃないんだ。
死にはしない。
歩く。仕方ない。
とにかく、まず警察だ。
パッキングバッグを置き忘れた車、探してくれるかもしれない。
「あきらめないぞ~!」と心の中で叫ぶ。
とはいえ、足取りは、重かった。
(※次回最終項)
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