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交通事故、荷台が放つ閃光

「危ない」と思ったゼロコンマ何秒後、トラックの荷台が眼前で閃光を放った。よく事故の瞬間はスローモーションになるというが、私の感覚では一瞬であった。ただ、その瞬間に見た荷台が、妙に「真っ白」だったという強い印象がこびりついている。


停車中の2トントラックへの追突。ハンドルは妻が握っていて、私は助手席に座っていた。身体が前方にすっ飛び、その衝撃を袈裟懸けのシートベルがすべて受け止める。あとで判ることだが、ここで胸骨が折れた。シートベルトはゴムひものように私の身体を後方に跳ね返し、座席にたたきつける。ここで尾骨が折れた。瞬間、運転席を見たが、妻の状態は分からなかった。全身を一気に痛みが走り抜ける。上半身をねじって痛みを逃そうとしたが、痛みは身体の内側に居て動かない。ドアは湾曲して開かず、窓もスイッチが押し下がるだけで開かない。ご年配の方が助手席のすぐ傍まで来てくれた。「救急車」と声に出そうとしたが、しわがれた呻きがこぼれるだけだった。

そのあとは意識朦朧としていた。救急隊員の声を聴くと、妻の容体は私より軽く出血も無いようだった。それを聴いて眠ってしまおうと思ったが、なぜか眼を開けたまま、明滅するバイタルのデジタル表示を見つめていた。病院まで40分。長い道のりだった。

病院に着く頃、痛みが増してきた。ストレッチャーに移され、ずっと目を瞑るように言われて、大きな機械の内部へ収納されたり、出されたりした。どれぐらいの時間が経ったのか分からないが、当番医の診察時に妻と再開したときは涙が流れた。頬が温かかった。腕が上がらないので涙を拭えず、若い当番医に顔を見られるのが恥ずかしかった。

頸椎捻挫、胸骨骨折、尾骨骨折で全治3か月。妻は打撲、すり傷、頸椎捻挫、目眩。事故の大きさのわりに、この怪我なら比較的ラッキーなんじゃないかと思った。相手先に一切怪我がなかったと知ったときは、安堵でしばし放心した。

種子島はへき地医療ではないが、地方の病院は常に病床が圧迫されている。なんと、その日に自宅へ帰ってもよいと言われた。入院は好きじゃないので友人に迎えに来てもらって帰った。帰って、泣いて、寝た。仰向けだと尾骨が、うつ伏せだと胸骨が痛いので、横向きで寝るしかない。寝返りが激痛で、その度にあえいだ。

事故から6日後、折れた尾骨を整復する手術をしたが、治らなかった。正しい位置に戻しても、ぐにゃっと戻ってしまうらしい。直腸が近くワイヤーも入れられなかった。痛みが残るかもしれず、その時は折れた箇所を切除する手術が必要らしい。種子島では難しく、大きめの都市へ行かねばならない。

ただそれでも、命があって、後遺障害もなくて、相手先の方も無事で、本当に、至極ラッキーだと思う。そういえば事故日は、一粒万倍日で、天赦日で、寅の日だった。

事故で学んだこと

まず、車は危ない。何トンかある塊が、右足のペダルひとつで時速何十キロもの速度を出す。そいつが人も歩く道をびゅんびゅん走ってる。危なすぎる。免許を取得して10年弱。これまで事故に遭わなかったことと、今回の事故でも取り返しのつかない最悪の事態を免れたことに、心から感謝した。

次に、自動車保険は大事。今回の事故で人身傷害も対物賠償も必要なわけだが、全て加入している保険の対象となった。これがなかったら、怪我の治療以上に、法的責任や金銭のことで心労が絶えなかっただろう。

最後に、支えてくれる人への有難さ。事故後、車もなく、妻も怪我をしているので食べ物を用意するのも困難だった。そんななか、料理を持ってきてくれるおかあさんや、買い出しをしてくれる友人が居た。全ての支えてくれる人へ感謝。



私たちは快方に向かっています。無論、事故後しばらく経ってから新たな症状が出る症例もあるので、慎重に様子を見ながら療養していきます。

自動車やバイクを利用するすべての人、歩行者。皆さんが安全に日々を送れることを心から願うばかりです。


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