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YS 2.49 プラーナーヤーマ1: そこに流れがある

ヨーガ・スートラを有名たらしめるのが、ヨガのゴールを目指す8段階を記す八支則。ヤマ、ニヤマ、アーサナときて、今回から4つめのステップ、プラーナーヤーマーが始まります。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.48 アーサナ3:自由を見つける」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章49節

तस्मिन् सति श्वासप्रश्वासयोर्गतिविच्छेदः प्राणायामः॥४९॥
tasmin sati śvāsa-praśvāsyor-gati-vicchedaḥ prāṇāyāmaḥ ॥49॥

The asana having been done, pranayama is the cessation of the movement of inhalation and exhalation. (1)
アーサナの段階が完了した後は、プラーナーヤーマで吸気と呼気の動きを停止する。


わたしがこの『ヨーガ・スートラを読みたい』を始めたのは、インド人による英語で書かれた解説と、同じ人だけど日本語に訳された解説と、アメリカ人によって英語で書かれた解説が違うことを見つけ、面白いなと思ったのがきっかけでした。

どの方もヨガの智慧に精通している方々ですが、それでも文化的背景や参考文献、そして経験によって、少しずつ解釈や解説の内容が変わるわけです。そして、今回のスートラも、微妙な差異がある。そこから見えるものに、目を凝らせることができたらなと思います。

(そのあたりについては、是非こちらから↓)


息を保持すること

インド人によって英語で書かれたフォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)も、アメリカ人であるハリーシャ(参考3)によって英語で書かれた解説も、吸う息と吐く息を止めること、または、吸う息と吐く息の流れを止めることが呼吸のコントロールで、それがすなわち、プラーナーヤーマだと書いています。

ハリーシャの解説では、プラーナーヤーマは、吸う息の終わりと、吐く息の終わりに、快適な分の長さだけ息を保持することだと書いています。そして、この練習によって、心が活動をやめ、完全な静寂に溶け込むという経験をすることができるといいます。


慎重に練習すること

その感覚を経験することができるかどうかは、継続した練習が必要であることは明らかです。そしてその練習について、フォーチャプターズは慎重に行う必要があると警鐘を鳴らします。

プラーナーヤーマは日本語で調気と訳されていることが多いですが、漢字の通り、気を整える方法でもあります。〈気〉というのは、ヨガでいうところのプラーナで、インテグラル・ヨーガは「”プラーナ”〔気〕は、それなしには何ものも動かず機能しない、宇宙的な力である」と解説しています。たとえば、電球を光らせる電気であり、考えるのにも必要な力。

そんな想像の域をこえる力を、果たしてコントロールできるものなのかと思いませんか。だからフォーチャプターズは、プラーナは野生の象にたとえられるとし、従順なプラーナがほしければ、野生の象を手名付けるように大事にケアをしなければならないと書いています。

つまりは、気を付けなければ、とても危ないものだということ。さらに、肉体的/精神的に何らかの支障が起きたら、練習を中止しなければならないと続けています。

だから、スートラの訳は、息を保持することとしているけれど、プラーナーヤーマは深呼吸ではないし、どれだけ息を止めていられるかということでもないと解説することにつながったのだろうと推測します。


どちらの道を通っても

インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)も、フォーチャプターズ同様に「プラーナーヤーマではそれ(注:プラーナ)を直接に扱うのだから、われわれは非常に慎重にならねばならない。それは、未熟なままで、難しい呼吸法を粗雑に行うことによって目覚めさせるべきではないのである」と書いています。

インテグラル・ヨーガは、3つの解説書の中で唯一、スートラの訳に息を〈保持する〉ことを記載せず、「呼気と吸気が制御されねばならない」と書くにとどめています。また、解説には括弧内ではありますが「長く止めることとかではなく」と明記しています。明らかに線引きをする意図がありそうです。これは、他の2つの解説とは違う。


その違いの理由は何だろうと考えましたが、いったんの結論としては、行きつく先が同じだけれど、その過程への〈誘導〉の仕方に差がでたのではないかと思います。インテグラル・ヨーガが勧めるのは、まずは、アーサナで準備した身体で静かに座ること。そこから、「呼吸は、乱れやムラがなく、静かでゆったりした状態で完全に制御されていなければならない」を目指す。

その完全に制御された状態に到達できたところを想像してみる。吸う息と吐く息の間、吐く息と吸う息の間に、少しずつ余裕ができてくるのは、当然の流れのように感じませんか。わたしはこれまで練習をしてきて、そうだろうという実感のようなものを感じます。

息を保持することだと、頭の中に念じていなくても、この先に、それがあるということ。息を保持することだと、頭の中で反芻しなくてすむからこそ、焦りから自由になれるということも、大いにある。


その先を見つめておく

フォーチャプターズは、プラーナヤーマについて、呼吸だからと言って肺の活動にはまったく関係なくて、生命の流れのようなものに大きく関係しているということを、明確に理解する必要があると書いています。

だからきっと、このスートラでは、慎重に呼吸をコントロールし、息を保持することをツールとしながら、生命の流れのようなものに触れていると自覚する機会でもあるのではないでしょうか。八支則のこのあたりから、目に見えない領域に踏み込んでいくところでもあります、そこまで含めた大きなフレームを提示されているということを、少なくとも〈知る〉こと。

大きな圧倒的なものを見ると、ああ自分はちっぽけだなと思って、焦る気持ちが払しょくされることってありませんか。たとえば、ふと顔をあげたら夕日で空が真っ赤っかだったとか、そういうこと。


今回のスートラが言葉として線を引かなかったプラーナーヤーマについて、この後も少し続きます。このまま線をぼかしたままなのか、もしくは違う角度から光をあてることになるのか。

そんなのも楽しみにしながら、また来週、ここでお会いしましょう。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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