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YS 2.31 戦うのか戦わないのか

ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」。ヨガの目的であるサマーディに達するための8つの段階(八支則)の1段階目、ヤマについての解説が続きます。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.30 ヤマが5つ」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章30節

जातिदेशकालसमयानवच्छिन्नाः सार्वभौमा महाव्रतम्॥३१॥
jāti-deśa-kāla-samaya-anavacchinnāḥ sārvabhaumā-mahāvratam ॥31॥

When practised universally without exception due to birth, place, time and circumstances they (yamas) become great disciplines.(1)
生まれや場所、時間、状況の例外なく普遍的に実践されるとき、これらのヤマは偉大な規律となる。

日本語だと禁戒と訳されるヤマ。そこでこういうことはやめなさいよと書かれているのは、非暴力(アヒンサー)、正直(サティヤ)、不盗(アスティヤ)、禁欲(ブラフマチャーリヤ)、不貧(アパリグラハ)の5つでした。それらを、どのような場合であっても実践しなさいよと書いているのが、今回です。


解説それぞれの解釈の差について

例のごとく、この5つが、3つの解説書でそれぞれどう訳されている、解釈の差について確認しておきましょう。

インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参考2。以下、インテグラル・ヨーガ)は1つめを階層と訳していましたが、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は生まれ、そしてハリーシャ(参考3)はカーストと、生物学で分類するところの種までその言葉の範囲を広げていました。

場所、時間については、違いはないのですが、気になるのは5つめ、インテグラル・ヨーガとフォーチャプターズは環境としていますが、ハリーシャは義務、つまりその人のもつ務めとしています。

環境に左右されずヤマを実行しなさいと言われれば、たとえば暑い日も寒い日も、公共の場にいるときもプライベートな時もという選択肢が浮かびます。一方、務めに左右されるのではないよと言われると、ちょっと変わってきます。

ハリーシャが引用した解説書によると、たとえば漁師が魚を捕ること、兵隊が反対勢力を殺すこと、どちらも職務として発生することではあるけれどと書かれているようです。でもこれ、『バガヴァッド・ギーター』を読んだことがある人は、あれそれと反対のことを読んだよと気付くのではないかと思います。


流派/文献それぞれの差について

ここで引っ張り出しておきたいのは、『バガヴァッド・ギーター』(参照16。以下、ギータ―)。『バガヴァッド・ギーター』、は古代インドの長大な叙事詩『マハーバーラタ』の中の短い一章ぶんにあたる部分で、ヨガについて語られていることもあり、ヨガ哲学の中で引用されることも多い本です。

その中で、ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナが、戦うことに疑問をもったアルジュナに対して、彼の持つ戦士として、王子としてのダルマ(義務)について説明し、戦うことを諭したという話です。


ギータ―では、その本の解説264頁にあるように「自己の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能である」と説いているわけです。

フォーチャプターズが例外はなしだと書いているのは、その特徴からさもありなんと思います。ただ、インテグラル・ヨーガは、今回のスートラの述べることは、「全時間を捧げるヨーギーのため」に書かれているが、「ヨーガの最終目標に対してそれほど強く集中していない人々には、これらの誓戒は、彼らの生活の場に応じた調整がなされてもよい。」と、解説しています。ここが分岐点かなと思います。


だから考える

ハリーシャも前述の解説したうえで、だから考えてみようと言います。ヤマを実践する際に、多くの人は、自分の中で例外を作っているとハリーシャは言いますが、自分を顧みるならば、そうだよなと思うところです。

これを機会として、自分の中で、意識的にでも無意識的にでも枠を設けていた例外はなんだろうと考えてみること。そして、それをこれからも続けるのか、やめてみるのか考えてみるといいよというのが、ハリーシャの解説でした。

わたしは、ひとまず例外を紙に書きだすところから始めたいと思います。無意識に例外にしていること、掘ってみたらいろいろ出てきそうなので、じっくり時間もかけながら。


ヨガの流派によって、また文献によって、ぱっと読むと正反対のことが書かれているように読むことがあります。ただ、ここまで『ヨーガ・スートラ』を読んできて、その中で何度もリマインドされてきた、目的があるからこその手段であることということを大事にすれば、迷うことはないのではないかと思います。

外から手に入れた知識ではなく、経験せよ、というのも何度も繰り返し語られています。より自分の血となり肉となる方を、と書きたいところですが、身体はただの乗り物だということなので、このたとえがはまらず、東アジアの文化がしみているんだなと思うところです。

ただそれでも、興味があるから学ぶ。そして実践できるところからしてみる。必要であれば修正しながら、続けてみる。その先に待っていてくれるならいいなと思います。


ハリーシャがヤマを「誓い」という言葉を使って表現していたのは、今回紹介したギータ―39頁に、「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。」と書かれているのと同じことを伝えているように思います。交わるところとそうでないところにも、目をこらしておきたい。

ではまた来週、ここでお待ちしています。

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