YS 1.40 理解が広がっていく過程にいる
心を集中させることの意義は、すでにスートラ1.29 で説明されていますが、今回のスートラは、また違った結果がついてくるよと書いています。なかなか壮大な話ですが、さっそく見ていきましょう。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もどうぞよしなに。
※前回分は、こちら『YS 1.39 または、自分の好きな方法で』をご覧ください。
ヨーガ・スートラ第1章40節
परमाणु परममहत्त्वान्तोऽस्य वशीकारः॥४०॥
paramāṇu parama-mahattva-anto-‘sya vaśīkāraḥ ॥40॥
パラマーヌ パラママハットヴァーントースヤ ヴァシカーラハ
[Through these practices], one's mastery extend from the finiest atom to the Great Expanse. (3)
(これらの練習を通して)その者の理解は、極小の原子から巨大な拡大にまで広がっていく。
今回のスートラにあるパラマーヌ(paramāṇu)というサンスクリット語の、アヌという部分が原子という意味をもつようです。この時代にすでに原子の存在が知られていたことに驚きますが、パラムという言葉と結びついて「考えうる極小のもの」としてここでは使われているというハリーシャ(参考3)の解説になるほどと思います。インテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)は「根源的原子」と書いています。
余談ですが、ハリーシャが参照している解説書の数々では、そのアヌは、太陽光線に浮かび上がるほこりの1/16くらいのサイズを1とする小さい大きさの単位のことも指すことばのようです。こういうのって面白い。
さて、その対極のものとしてでてきたのが、マハット。インテグラル・ヨーガは最も巨大なもの、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は無限の広さ(the infinitely large)、ハリーシャは巨大な拡大(Great Expanse)と、それぞれ訳しています。それが指すものをもう少し具体的にするのはハリーシャの解説で、わたしたちの判断能力や識別力が引き出されてくる、宇宙そのものがもつ知的能力のことを指すようです。宇宙が引き合いに出てくるなら、それはそれは大きいことだろうと思います。
集中を深めていくことによって、どんなものでも理解できるようになるよというスートラの「どんなものでも」を、たとえがイメージしづらいながら、書いてくれているわけです。これによって、このスートラの輪郭がさらに壮大になりましたが、もう少しいきます。
それでも、まだそこはサマーディではないよと書いているのは、フォーチャプターズです。ここで得るのは、ここから更に微細なサマーディとよばれる段階の繊細さを知覚する技術だということです。そして、そのサマーディの段階では、名前、かたち、名前によって意味をもたらされる対象物を区別し熟知していなければならない。ここが今回のスートラのいう対象をどう理解するかということではないかと思います。
名前についていえば、たとえば、林檎という名前は、実際のところあの赤い気になる果物である林檎をさしますが、アーティストの椎名林檎も果物でないけど林檎という名前がついています。こういったように、それぞれ3つの役割を混同して理解してしまいがちだから、ことばや形に邪魔されることのない対象の在る瞑想を練習する必要があると書いているのは、ただもうそうでしょうねと思います。これを混同しているがゆえに、習慣が習慣として回っているんだろうと思うので、そこを分解していくっていうのは、なかなかおそろしいことだなあ。
サマーディについては、ここからのスートラで更に言及されているので、それを穏やかに待ちましょう。そうしましょう。
ハリーシャは、フォーチャプターズとは違った識別すべき3つを上げていました。それは、ヨガ哲学ででいうところの、こころ(チッタ|citta)です。以下のように、3つに分類できると考えられています。
・マナス:知覚した情報を処理して、どこに注目するか決める。
・アハンカーラ:他と比べて自分を省みる作用をもつ。(参考13)
・ブッディ:根源的な知性。
そして、知覚した集中する対象とその瞬間瞬間を共にいること(マナス)、対象の本質を究明すること(ブッディ)、そして対象そのものと真実の関係を結んでいることを究明すること(アハンカーラ)ができたならば、それが、こころをマスターすることができている。つまり、正しく理解し、識別できている状態だということでした。
理解できる日が来るんだろうか、と、途方に暮れた気持ちにもなりますが、皆様いかがでしょうか。新しい概念は、分かりづらい。そして、分からないままの物事って、怖いものになってしまうこともあります。でも、一朝一夕で分かることでもない。
でもたとえば、あの時にそっちに決めちゃったこと、アハンカーラが働いていたのかもしれないと考えてみる。または、あの時に直感で決めたこと、ブッディが働いていたのかもしれないと考えてみる。そうやって少し考えてみるだけでも、遠くから眺めて見るよりはよっぽど、自分ごとにできていると思いませんか。そして、それが経験する以外に完全に理解する方法はないというヨガの練習として、私たちができることではないかなと思います。そして、完璧にできなくて当然なのは、だって道の途中なんだからということです。
今までのスートラで、集中する方法をいろいろ紹介したうえで、最後に好きなのでいいよと書いたのは、とにかくやろうよということだったわけです。ただ、今回を含めると40のスートラと、解説者たちが残してくれた解説をすでに読んできて理解しようと努めてきたわけで、それならば、まったく軌道を外れることはないだろうと思っています。ということは、途中にある目的に向かっているんだとにかく。
だから練習だよな結局、と、あほの一つ覚えですが書いておきます(自分と同じ気持ちの方用に)。そうやって、少しずつ見えているものが変化するのを待ちませんか。
では今回もサンスクリット語を読んで終わりにしましょう。あたまがいっぱいの時に、声を出すって結構大事です。身体があるのを思い出すことで、戻ってこれる安心な場所ってありますよね。
さて、第一章も残り11スートラを残すのみとなりました。ここからサマーディの話を経て一旦の終着点にたどりつきます。理解の範囲の及ばないことが増えてくるので戦々恐々ですが、焦らず、分かる分だけ理解しながら、また戻ってきながら、あたまと身体にしみこませていきましょう。次回のスートラはこちらから⇩
※ 本記事の参考文献はこちらから
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