YS 2.8 それはあなたが選んだのか
ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」。苦痛を発生させる原因のおおもとは、無知だよという話から、エゴイズム、執着ときて、今回は4つめの嫌悪です。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。
※前回は、こちらの「YS 2.7 それはまだ喜びのままか」からどうぞ。
ヨーガ・スートラ第2章8節
दुःखानुशयी द्वेषः॥८॥
duḥkha-anuśayī dveṣaḥ ॥8॥
Dwesha is the repulsion accompnaying pain. (1)
ドウヴェーシャは、痛みに付随して起こる嫌悪である。
苦しみの種、またはクレーシャの4つめは嫌悪です。種、というよりはもう、だいぶすでに芽を出して葉を広げているように感じられるくらいに、明らかな苦しみですよね、これ。
痛みはあるものとして
今回のスートラは、痛みに付随して起こる嫌悪。嫌悪って、なかなか強い言葉です。他の解説では憎悪という言葉も使っていて、どちらにしても、できるだけ近寄りたくないなあと思ってしまう。でも、嫌悪がなんなのかは、経験で十分に知っている。
知っているから、その言葉で呼び起こされる過去の経験があるし、強い言葉なので引っぱられやすい。でもちょっとふんばってみて、できるだけ色眼鏡の色を薄くして、スートラを眺めたい。それで思うのは、嫌悪が痛みに付随して起こるのであれば、痛みがなければ嫌悪が発生しないということなわけです。
つまりは、痛みがまずそこにある。
痛みとか苦しみの話になると思い出すのは、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』に紹介されていた、あるランナーのマントラ(マントラって書いてる)です。それは「Pain is inevitable suffering is optional」で、ごく簡単に訳すと『「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」ということになる』(村上春樹,2007年,p.3)。
どうでもいい話ですが、このマントラ、わたしがインドで200時間のトレーニングをした時のわたしのマントラでもありました。仲良くなったイギリス人の子も村上春樹が好きで、二人で確認し合うように、声に出していたなあ。しみじみ。
それはさておき、まず痛みはそこにあり、避けるのは難しいということ。こちらの状況を加味することなく、痛みは起こる。でも、どうするかを選ぶことはできるし、その主体は自分ですよというわけです。
苦しむかどうかは選べるものとして
痛みと嫌悪が結びつくのは簡単だろうなと想像します。身体的であれ、精神的であれ、痛いのは嫌だしつらいし心細くなる。だから何かをつかみたい。痛みが大きいほどに、反動としての大きな嫌悪が必要になるだろうと思う。
無知からエゴイズムが生まれ、エゴイズムから執着が生まれ、執着から嫌悪が生まれる。ここに来るまでに発生に加速がついているだろうから、やっぱりコントロールするのは大変だよなと思います。車は急に止まれないし、いわんや視野の狭くなったときの気持ちの走りっぷりをや。
選ぶ時にも痛みを伴いますよね。前回、何かを好きということは、嫌いな何かが自ずと発生してしまうと書きましたが、何かを選ぶときは、何かを選ばないが発生します。選ばない選択肢の先に誰かの顔が見えていたり、残したおもいがあったら、それらと手を離すのは、やはり痛みを伴う。
そして、その痛みは、自分の決めたアクションによって生じるわけだから、誰のせいにもできないわけです。ああしんどい。
それでも、ふんばって嫌悪を選ばないモチベーションは何だろうなと思うとき、わたしが1番最初に考えるのは、嫌悪ってエネルギーすごい使うんだよなあということ。体力要りますよね、何かを嫌いになったり、憎んだりすることって。だから、そこで無駄遣いをしなくてもいいわと思ったのが、わたしが嫌悪と距離をおこうと決めた1番大きな転換だったなと思います。
ハリーシャ(参考3)も、嫌悪にとらわれると怖いものが増えて、不安が不安を呼び、自分の人生が自分を守ることで精いっぱいになってしまうよと言います。そんなのって、もったいない。
そしてその嫌悪の対象は、本当はいま目の前にないということもあるわけです。目の前のものや人に嫌悪感を感じたとき、それは過去の経験から嫌悪を感じる対象であるだろうというパターンで判断していることも往々にあるわけです。それもふまえて、ハリーシャは、嫌悪にとらわれ、自分の人生にリミットを作ってしまうことはないんだよと語ります。
まあだから頑張ってみようよ
インテグラル・ヨーガ「パタンジャリのヨーガ・スートラ](参考2)の解説はまた違う角度からで面白いのですが、外の世界から喜びを得たものの、それが自分を不幸にすることが分かると、それに対して憎悪が生まれるのだと書いています。なぜなら『誰でも幸福になりたいと思っている』から。でも『誰もわれわれに幸福をあるいは不幸を”与える”ことなどできず、ただわれわれ自身の中の幸福を映し出したり歪めたりしているだけなのだ。』と。
これを読んで、改めて過去の経験を振り返ってみると、ひとりでジタバタしただけだったなということがあるし、嫌悪という感情と共にずっといる必要なんてないんだなと思います。
だからよしやるぞと思う。
思うけど、
簡単ではないよなと思います。
(まあそもそも簡単にできることはなかなか出てこないけれど)
今回の記事を書くのに、ものすごーーーーーく時間がかかっていて、なぜかというと、嫌悪ってあんまよくないよねという意見って、反対の余地がないぶん、言葉が上っ面をすべって出てきてしまうし、分かった風に語ってしまう。本当に分かっていないから、繰り返してしまうのに。
まあでもできていたら、ヨガしてないわけです。ということで、まあ頑張ってやってみませんか。こんなんばっかりだけど、こういうことだよなと思ってもいます。
では、次回は苦しみの種(クレーシャ)のラストです。「生にしがみつくこと」という、とっつきにくそうなあトピックではありますが、来週も元気にここでお待ちしています。
※ 本記事の参考文献はこちらから
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