見出し画像

YS 1.47 光が満ちる

ヨーガ・スートラ第1章も、今回のスートラを入れてのこり5つ。最後に向かって加速する... 前の、少し喜びを想像してみる時間です。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もよろしくお願いします。

※前回分は、こちら『YS 1.46 種が残っていた』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章47節

निर्विचारवैशारद्येऽध्यात्मप्रसादः॥४७॥
nirvicāra-vaiśāradye-‘dhyātma-prasādaḥ ॥47॥
ニルヴィチャーラ バイシャーラディエー ディヤートマ プラサーダハ

After becoming absolutely perfect in nirvichara samadhi the spiritual light dawns. (1)
ニルヴィチャーラ・サマーディに完全に達した者は、夜が明けるように崇高な光が輝きだす。

インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)が、解説なしで、さっと次に進んでいく今回のスートラ。上記は、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)の訳を参照しましたが、夜が明けるように光り輝いて、それでそれで次はと、ちょっと気が焦る気もします。でもちょっとその前に、光り輝くということを、じっくり眺めて、そしてちょっと喜ぶ時間を堪能するのがいいのではと、思います。


これまでのサマーディ、または同義語として使われているサマパティの、これまでの段階を経ることで実を結ぶことがあるよ、享受するものがあるよいうのはハリーシャ(参考3)です。わたしは、ここにハッとしました。今まで分かるようで分からない、というか経験するまで分かりえないサマーディについて(唸りながら)読んできました。理解をしたいと思ってもできないことが苦しみになるところでした。

でも、そういえば、なんでサマーディを目指してもいいなと思ったのか。わたしは、こころがあちこちに飛び回ってしまっていても、変わらず静かにそこにある自分の本質として在ること(スートラ1.3)って良さそうだなと思ったからだったはずです。分かりたいと思うばかりで、学ぶ先に起こることを見据えること、忘れていたなと。そして、これまでにパタンジャリが何度か示唆している、目的が大事で、手段はそのためのただのハシゴだよということ(スートラ1.32)、ああすっかり忘れていたな!と思いました。

フォーチャプターズ曰く、ニルヴィチャーラ・サマーディは、スートラ1.51で記される最終段階の手前の最も大事な局面として描かれている今回のスートラ。ヨガが目指す最終目的地の手前だけれど、小休憩。少し顔をあげて、ああこんなことが待っているんだなと、頬を緩ませるスートラです。


前置きが長くなりましたが、では、何が待っているか。それは、自身の最も内側に在るものが輝くこと。フォーチャプターズは、その崇高な光が輝きだすことを表現するのに、朝日が輝きだすというときに使う表現を選びました。ゆっくり、徐々に、光が自分の内側を満たしていくさま、少し目を閉じて、想像してみませんか。

インテグラル・ヨーガは「至高の自己は輝く」と書いています。至高の自己とは、比喩として、目的のハシゴを登ったところに在る自分(だから至 "高" )。ゆっくりハシゴを登り、そこで再会する至高の自己が輝くさま、こちらも少し目を閉じて、想像してみたい。

ハリーシャは、「光」とは書かずに、内側の明晰さと美しさ(internal clarity & grace)がそこに在るとしています。ここでグレース(grace)という単語を使ったのが面白いなと思うのですが、讃美歌で有名なアメージンググレースのように、キリスト教では恩寵、神の愛という意味ももつ言葉です。自分よりひと回りもふた回りも大きな神という存在に包まれるイメージは、キリスト教が根ざす文化で生きていると、想像しやすいのかもしれない。

ただ、他2つの解説同様にハリーシャが強調するのは、ここで大事なのは、輝きを放つのは、他の何者でなく、神さまでもなく、自身の最も内側に在るものが輝く、ということだということ。これまでに出てきた〈見るもの〉や、プルシャ、イーシュヴァラと、ヨーガ・スートラが、何度もわたしたちに目を向けるよう促してきたそれが、ここで輝きを放ち始めるということです。長い旅を、してきましたね。


冒頭で書いたように、ここはまだスートラ1.51で明かされる、最終段階の手前です。では、ここからどう続いていくのか。フォーチャプターズが、これからの展開について短く書いているのを紹介して、終わりたいと思います。

「ニルヴィチャーラ・サマーディは超意識の最高位である。この崇高な光は、ニルヴィチャーラ・サマーディの最終段階で、こころに現れる。そしてその後に、知性が作用することを完全にやめる意識の終わりがある。ここからは、別の意識が、大望を抱くヨガ実践者を追い越していく。」


音読して、身体でスートラを味わうのもお忘れなく! 以前書きましたが、ヨーガ・スートラの音声は、インドに戻れないままなので、第1章のみしか用意がありません。心苦しくはありますが、音声がある分について、満喫していただけたら、とても嬉しいです。


それはなんだと、興味を惹かれるフォーチャプターの予告ですが、来週に次回の記事を公開するまで、ここで言及される光を想像するのを満喫してみませんか。それはきっと、最後まで読み切るエネルギーになるのではないかと、思っています。ではまた来週、お会いしましょう。

※ 本記事の参考文献はこちらから




励みになります。ありがとうございますー!