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YS 2.19 階段をひとつずつ登る

ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」。ヨガの〈見るもの〉と〈見られるもの〉の話が続きます。自分の練習から引っ張ってこられるものがあるか、もしくは想像力を最大限に活用できるか。どちらでも、どちらでなくても、ヨーガ・スートラの解説は続きます。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.18 全身全霊で経験しているかと問われれば」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章19節

विशेषाविशेषलिङ्गमात्रालिङ्गानि गुणपर्वाणि॥१९॥
viśeṣa-aviśeṣa-liṅga-mātra-aliṅgāni guṇaparvāṇi ॥19॥

Vishesha, avishesha, lingamatra and aling are the stages of the gunas. (1)
グナの段階には、ヴィシェーシャ、アヴィシェーシャ、リンガマントラ、アリンガの4つがある。

今回は、グナの段階について。これ、実はすでに第1章17節で説明があったサマーディの段階のことです。下記のリンクから飛べるので、まずはそちらを。例えを載せているので多少分かりやすいかと思うので是非。

フォーチャプターも、ハリーシャも、今回のスートラはY1.17 の段階と対応していると言いますが、状態をあらわす用語(といっていいものか...)が違います。ああ、ややこしい。でもひとまず、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)の解説を手に、いざゆかん。


グナの段階

① ヴィシェーシャ(Vishesha)

見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わっていて、そこに違いがあることに気付いている状態だということです。インテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(参考2。以下、インテグラル・ヨーガ)は「粗大なものである」と書いているのは、なぜなら、ここからより繊細なところに向かっていくから。それを粗大というならば、わたしの ”いま” 見ているものはなんぼのもんやでと思いますが、まあよし。

YS1.17 では、対象の本質を分かっていないまま推し量って認識しているため、推論している状態だと説明していました。


② アヴィシェーシャ(Avishesha)

この段階になると、そこにあった違いはなくなり、対象物は溶け込んでいくと言います。YS1.17 では、光や音などの波がある面で跳ね返る反応や反射によって存在する対象物を、そのまま認識している状態とありました。

余談ですが、サンスクリット語はあたまに「ア」がつくことで、否定の意味になるので、ヴィシェーシャは、ヴィシェーシャでないということになります。 


③ リンガマントラ(Lingamantra)

この段階になると、対象の〈原型〉、つまりその対象の本質をみているということです。インテグラル・ヨーガが「わずかに顕現した段階の“定義されるもの”。」と書いているのは、きっとそういうこと。

YS1.17 では、ここでは認識している対象ではなく、認識しているという行為や能力そのものへ視点がうつりますと書いています。今回のスートラとこの解説を足し算してみるならば、対象の本質が見えている状態になった結果、対象とみている自分の関係がより濃くなり、自分も集中の対象にはいってくるということかなと推測するのですが、どうでしょうか。


④ アリンガ(Alinga)

この段階では、顕在化したものが無い状態。「跡」が消滅している状態だということです。インテグラル・ヨーガがそれを「定義され得ない状態」と書いているのは、面白いなと思います。YS1.17 が純粋な〈私ーであること〉のみを認識している状態と書いているので、つまりここで〈見られるもの〉が消滅し、〈見るもの〉のみが残るということでしょうね。


ずいぶん見たことのない世界まで行くんだなと思うのですが、これは識別ある三味(サムプラジュニャータ・サマーディ)の段階で、ここが完了すると、次に識別なき三味(アサムプラジュニャータ・サマーディ)に進んでいきます。なんていうか、すごいことです。

でも、ひとまずいったん、深呼吸して、首と肩まわして、あとお好みで前屈したり、ぐーっとそってみたり、しましょう。あたまがいっぱいな時に、身体を動かすの大事。


そして、心の余裕があったら、以下の第1章41節も覗いてみてください。これも、今回のスートラと同じあたりを解説しているんですが、また違った角度なので、読み比べてみると面白いです。合言葉はクリスタル!


わたしの段階  

面白いなと思いつつも、なかなかお腹いっぱいだなあと思う今回のスートラ。大事なことは、練習の先に経験するかもしれないことのロードマップがありますよということ。そして、今のわたしの段階で、経験のないところについては、分かるような、分からないような、その間をただよう胆力みたいなものを育てること、でしょうか。

分からないことだけれど、それに恐れてないことにしてしまうのは、ヨガの練習を続けるならもったいないような気がします。分かるような気がして満足してしまうのも、分かっているのの皮一枚分くらいの深さでまだ「分かる」ことが眠っているかもしれない。

これも簡単ではないですが。


ハリーシャ(参考3)は、このスートラをさささっと解説するなら、見えているものは全て原子でできていて、目の前で起きている現象は、それが飛んだり跳ねたりプログラムされたように活動しているというだけなんだってことだよと話しています。さすがのモダンなハリーシャ節。

自分の考えですら、5つの感覚器官からの信号で脳が決めているわけだからねとも話していますが、だからね、というのの先が、次のスートラに続きます。また来週、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから







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