YS 2.4 苦しみの種の種
ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」。ヨガという状態を達成するには、苦痛を発生させる原因を最小にすること必須だということで、その苦痛の源を明らかにしていきます。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。
※前回は、こちらの「YS 2.3 それともつながる」からどうぞ。
ヨーガ・スートラ第2章4節
अविद्याक्षेत्रमुत्तरेषां प्रसुप्ततनुविच्छिन्नोदाराणाम्॥४॥
avidyā kṣetram-uttareṣām prasupta-tanu-vicchinn-odārāṇām ॥4॥
Ignorance is the field within which the the other afflications develop, whethere they are dormant, weakend, intermittent, or active. (参考3)
〈無知〉が休眠中、弱まっている状態、途切れ途切れになっている状態、活動的のどれであったとしても、それは他の苦痛の源が芽を出す土壌である。
苦痛の発生の原因ことクレーシャの紹介を始めたヨーガ・スートラ。まずは、無知から。サンスクリット語好きの方、こちらアビディヤと読むようです。お好きな方で心においておきましょう。
今回のスートラのポイントは2つ、これが全部の苦しみの源だよということと、段階があるよということ。
全部ここから始まる
〈無知〉が、他4種類のクレーシャが芽生え、育つ種である、つまり、源であるということ。これが、まず1つめのポイント。
クレーシャのひとつ、執着について考えると、それが自分のものではないのに、そのことを知らずに自分のものだと思う時に執着が芽生えるので、確かに無知から始まっている。この後に続くスートラでエゴイズム、執着、憎悪、そして生にしがみつくことという他のクレーシャについては、この後に続くスートラでカバーするのでいいとして、無知の反対の知るということを少し考えたい。
というのも、知ることは大事だと思うし、知ったことで世界が広がる喜びも経験があるけれど、知ることは素晴らしいと声高に叫ぶことはできないよなと思ってしまうからです。知ったことで戻れなくなってしまったこともあるし、痛みや悲しみが伴うことも多々あるわけです。さらに言えば、知らなくていいと目を伏せている自分に気付くことにもなり、自身の在り方に疑問をもつ。これ、しんどくないですか。
かといって、全てを背負うなんてできない。だから今かんがえつくことといえば、何も知らないということを今の自分の範囲で知っておくことと、歩みを止めないこと。弱虫ですかねどうですかね。
そして、スートラ1.25で「イーシュヴァラには、制限のない全知の種が存在する」と語っていたのを、引っ張り出してきたい。
解説によると、全知は、博識であることや知識の豊富さ云々というよりは、知識がアクセス自在であることを指しているようでした。イーシュヴァラが存在する領域では、物事が顕在化していないため、境目もなく、「外側」もない。だから、外から何かを引っ張ってくることは不可能で、全ての知も既に内在しているという話でした。
正しさを力任せに振り回さないために、先に書いた知ることの不安を少し抱えたままであることは悪しきことではないだろうと思っています。そしてそれでも、ヨガをやり続けるうちは、ヨガがいうところの全知へつながる道に立っているということ。
途方もない話だなと、相変わらず思いますが、そのあたりを勇気に変えて練習していけたらいいよなと思っています。
朗報があるとするならば、〈無知〉が他のクレーシャの根源であるなら、そのケアをすることで、他のクレーシャを弱めることもできるということ。反発するエネルギーを生まないためにも、核心を一気につこうとせずに丁寧に進めたいものです。
4つの段階がある
その根源である〈無知〉には段階があって、休眠している、弱まっている、途切れ途切れになる、活発であるという4つであるということです。身に覚えのある順で進めたいので、スートラが書いた順番の反対から読んでいきます。
①〈無知〉が活発である
絶えず表層に〈無知〉による作用が現れている状態。インテグラル・ヨーガがいうところの「一瞬ごとにさまざまな障害の影響を受けている」状態。そう聞くと、なんでそんなの引き受けてしまうかねと思うのに、抜け出すのは簡単ではない。
外国への旅から日本に帰ってくるたびに、全ての看板や標識や広告、隣の人に話すことやアナウンスを、全部理解できてしまう情報過多な感じに疲れる一定期間があるんですが、わたしはそんなのをイメージします。心があっちこっちに引っかかってしまうから、小さな傷をどんどん抱えている。
②〈無知〉が途切れ途切れ
そこから練習が進むと、〈無知〉が発動しない瞬間も出てくる。ずーーっとスピーカーがオンになっていたところから、たまにオフにする時間もできてくる。テレビとか、ラジオを消した時のしん...とする感じに一息つくところを想像するといいなと思います。でもそこに心許なさを感じることもあって、それが段階を進む邪魔をするんだろうなと思います。
③〈無知〉が弱まっている
この段階になってくると、〈無知〉の反応がマイルドに。ハリーシャ(参考3)は、〈無知〉が発動するようなきっかけがあってもプロセスされないし、パワフルでもないと書いています。
〈無知〉の芽が力を無くすのは、まずは途切れ途切れになって、その後に全体の力が弱まるという順番なことは、練習を続ける者としてなるほどと覚えておきたい。オンオフの落差で起こる波が、徐々に穏やかになって凪のように静かになっていく。それを頭の中に入れておくと練習方法も自ずと変わる気がします。
④〈無知〉が休眠している
弱まった先にあるのが、休眠。つまるところ、無くなるわけではないということです。インテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(参考2)がこの状態の例えとして赤ん坊をあげているし、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1)は、卓越したヨギくらいのものだと書いているし、そういうもんだと諦めの気持ちが大事そうですね。
ハリーシャは、この状態は、頻度をもって継続した練習によって、〈無知〉が引き起こされないように「引き渡されている状態」だと書いています。自分の手元にあるのではなく、どこかに預けているような感じ。そこに在るとはいえ、手から離れている様子を感じます。ここが、目指す先。
ここまで読んで、あれちょっと待て?と思いませんでしたか。そう、結局〈無知〉が何なのかの説明がないわけです。それをパタンジャリは次のスートラにまとめました。
理解すべきことを順に並べているヨーガ・スートラにおいて、無知がなんであるかよりも、無知が全ての根源であることと、4つの段階があることを先に書いたというのは面白いなと思います。先に受け取る準備をしておけよということでしょうか。
というわけで、次回は、その〈無知〉とは何なのかの定義が示されます。また来週、ここでお待ちしています。
※ 本記事の参考文献はこちらから
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